2014年12月21日日曜日

コミュニケーション言語の歩み寄りの必要性

英語を話す(英語でコミュニケーションをとろうとする)場合、自分と相手の英語力が同等であればあまり問題は感じない。すなわち、自分の知っている語彙や表現をそのまま使えば、相手も理解してくれるからである。同様に、相手の話で使われる語彙や表現にも同じことがいえる。

次に自分の英語力よりも相手のほうが上の場合はどうだろうか。例えば相手がネイティブスピーカーの場合である。この場合は、自分の知っている語彙や単語があまり簡単でなくても、相手は理解してくれるだろう。一方、相手のネイティブスピーカーは、ある程度「手加減」してやる必要がある。すなわち、「このくらいの言い回しであれば相手が知っているだろう」とか、「この表現は難しそうなので、簡単な言い回しに変えよう」といった「歩み寄る姿勢」である。

これとは反対の状況で、相手の英語力が自分よりも低い状況ではどうだろうか。その時は、自分が「歩み寄る」姿勢をとらなければ、コミュニケーションが困難となる可能性が高くなる。

英語が第一言語の世界では、こちらが歩み寄る必要はない(相手の教育レベルにもよるが)。しかし、英語が非母国語の世界では、相手の英語力を察し、場合によっては歩み寄って相手のレベルにあった平易な英語に切り替えることが必要だ。ブラジルで英語によるコミュニケーションの体験から、そう思った。

個人の経験では、ブラジル人はポルトガル語の使用に関して、まったく歩み寄る姿勢が見られない。(似たことは以前にも書いた)。こちらが「わからない」という反応を示しているにもかかわらず、だ。お構いなしに話を続ける。
なぜか?
彼らは「誰もがポル語を話せる」と思っているのではないかという結論に達した(特に田舎の場合)。そう考える理由は、日本の状況から説明できるだろう。つまり、構成している人種の多様性の違いだ。「ブラジル人」と言っても肌の色から容姿に至るまでバリエーションが多い。一方、日本では、近所のアジア系の人々と似てるとはいえ、非ネイティブな人間は見た目でだいたい判別可能である。だから、相手の見た目で「言葉を変えたほうがいんじゃないか?」という発想は日本人にとっては自然であるように感じられる。

ネコには歩み寄りの必要はないですが・・・

2014年12月15日月曜日

ヒトも歩けばネコにあたる(その2)

道端で出会うたいていのネコは、こちらと視線が合うと、逃げ出す体制をとることが多い。誰もがネコに友好的であるとは限らないので、不思議ではない。このシャムネコはこれ以上の接近ができなかった。
いつでも逃げる体制だったシャム君


それでもたまには飼い猫タイプのネコもいて、こちらの茶ブチネコはちょっと声をかけると寄ってきた。
ネコがそう思ったかはわからないが、想像でセリフを入れ4コマ漫画風にしてみた。
「ん?」

「何か用?」
「あれ?エサないの?」

「そっちに行って損したよ、チッ(舌打ち)」
こちらでは珍しくぷっくりしていると思ったが、どうやら妊娠ネコだったようだ。首輪はないが、ほぼ飼い猫なのだろうな。

2014年12月1日月曜日

ヒトも歩けばネコにあたる(?)

週末には散歩することが多い。最近はウォーキングというのだろうか。感覚的には、運動的な要素が多ければ後者の呼び方となる気がする。

ただ歩いていても無目的な気がするため、ネコを見つけ出すことを散歩の一つの目的にしている。

出会ったときのネコの反応は3つにわかれる。
1.警戒して、近づくとすぐに逃げる「典型的野良猫タイプ」
2.こちらから近づいても逃げずに触らせてくれる「飼い猫タイプ」
3.あまりこちらの様子を気にせず、我が道をいく「マイペースタイプ」

遭遇したマイペースなネコ
今日、出会ったのはマイペースタイプのようで、特に「逃走」するわけでもなく、道を渡っていった。

外で見かけるのは、イヌのほうが圧倒的に多く、ネコは少ない。特に、田舎ではイヌは番犬として実用的なのに対して、ネコは実用性に乏しいことは否めない。いや、ネコもネズミ駆除に使われていたか?

実用的であるに越したことはないが、「実用的でない」ところがネコらしいのではないかとも思う。

2014年11月24日月曜日

「ちょいな人々」荻原浩

以下の1~7の短編である。なるだけネタバレしない程度に概要をまとめた。1~4と、7は状況がどんどんエスカレートするなかでの「喜劇」といえるだろう。犬や猫を飼っている(いた)ならば、5.「犬猫語完全翻訳機」にハマること間違いない。


1.「ちょいな人々」
 保守的な印刷会社のサラリーマンが、ある日トップダウンで決まった「服装のカジュアル化」に振り回される心情と戸惑いが描かれている。

 2.「ガーデンウォーズ」
 ガーデニングにあまり詳しくない主婦と、その隣人の老人との庭の境界での小さなもめごとが徐々にエスカレートしていく様子が描かれている。

3.「占い師の悪運」
 占い師養成学校をでてパッとしなかった主人公だったが、以前勤めていた際に営業で回った場所近くを拠点として占いを始めた。そこでの客となるOLについての情報をすでに持っていたため、それを利用してよく当たる占い師として評判となる。そんな時、深刻な客がきた。その女性の要求は、自分で植えたチューリップの、これから咲く花の色を占いで当てること。外れれば死ぬと。霊感も何もないでたらめ占い師のとった行動とは?
 巻末の参考資料(石井裕之のコールドリーディングの本)は、ここで使われたと資料と思われる。観察や質問のやり方といった技術を使うことで、エセ占い師としていろんなことを言い当てることができる。今でいうとメンタリズム? 以前コールドリーディングの本を読んだが面白かった。

4.「いじめ電話相談室」
 いじめ相談室で電話相談員の女性が、電話で受け答えしているだけではいじめの解決にならないと気づき、具体的な行動に移していく。相談員として「指名」を受け付けるまでになったが、逆にいじめ相談室での「いじめ」の対象になる。いろんな場所や状況でのいじめを織り交ぜて話が進行する。

 5.「犬猫語完全翻訳機」
 犬や猫の気持ちを人間の声に変換できる翻訳機スーツを開発した会社が、モニターを募集してテストした。犬や猫は、翻訳機を通じて何を言ったのか?そして、モニターの結果商品化は実現できたのか?犬猫の言ったことは、過去に猫を飼っていたことからだいたい予想できたにしても、商品化できなかった理由にちゃんとしたオチがついている。

6.「正直メール」
 前の「犬猫語完全翻訳機」を作った会社が、今度は声だけでしかも感情を反映させてメールを書けるケータイを開発した。声に含まれる感情を織り込んで文字変換するその機能が、本当に正直な感情を反映してしまった結果、起こった喜劇。

7.「くたばれ、タイガース」
 主人公である治美が結婚することになり、阪神ファンである婚約者が自宅にあいさつに来たものの、治美の父が巨人ファン。「娘さんをください」という前に、徐々に治美の父親にも婚約者が阪神ファンだとわかり、酔った二人が中継戦を見ながら、もはや結婚のあいさつどころではなくなる様子をユーモラスに描かれている。
 結婚のあいさつのために、妻となる女性の家にいって義理の父(となる予定)と話をする状況は、特に男性が緊張を強いられる状況であることから、題材として取り上げられやすいのだろう。野球好きであれば、もう少し入りこめるかもしれない。

2014年11月17日月曜日

「氷菓」米澤穂信

  高校生による謎解き小説である。しかし、「名探偵コナン」のような精巧な「オチ」は仕込まれていない(テレビアニメのほうをたまに見ることがあるが「謎解き」は大人でも楽しめる場合が多い。)

主人公が通う高校で過去に起こった「事件」の経緯を明らかにするのがメインな筋である。だが、その途中で主人公の非凡な謎解き能力が発揮される話が序盤にあり、その辺まで読んだときには、一種の短編小説集かと誤解するほどだった。「氷菓」とは、その高校の古典部(そこに、主人公が入部せざるを得なかった)の文集の名前であり、なぜ「氷菓」なのかが最終的な謎解きとなっている。

 単純な謎解きとしては、かなりフツーな部類に入るのだろうと感じた。主人公と友人の関係も描写されているが、それも感じ方は人それぞれ、また、世代によっても感じ方が違うに違いない。



2014年11月10日月曜日

ネットの記事より - "あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」"

ネットで以下の記事が目に留まった。
オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」702業種を徹底調査してわかった


コンピュータ化や自動化が進むにしたがって雇用がどのように影響を受けるか? というのが元になっている論文だ。ヤフージャパンの記事を見た時には最近の発表かと思われたが、調べてみると元論文は2013年9月に発表されていた。
The Future of Employment: How susceptible are jobs to computerisation?

「オックスフォード大学が認定」というのはちょっと語弊がある。正しくは、オックスフォード大の中の研究プログラムOxford Martin Programme on the Impacts of Future Technologyで発表された論文というべきであろう。

単純労働が置き換わり可能で、創造的な仕事や、対人的に高度な処理を必要とする仕事が置き換わりにくいだろうとの予測は、これまでも言われている予想の範囲である。ただし、ちょっと複雑なサービス業、例えばタクシーの運転手も自動化の可能性があるとみているのは新しいだろう。

ただし、ここでの予測に対して以下のような限界(=平たく言えば予想が当たらない場合のいい訳ともとれますが)も論文の中で注記している。
■安い労働力が不足している状態や、投資できるお金が十分な時には起こりうることである。
■規制や政治的な動向で、機械化の動きが減速される可能性がある。
(例として、カリフォルニアやネバダ州では無人運転車に対しての法規制を整備する動きに言及)
■未来の技術予測は大変に難しい。

上記のニュース記事では触れられていないが、元の論文では、アメリカの2010年時点での雇用者数の47%がコンピュータや機械に置き換わる危険にさらされているとみている。また、「賃金」と「置き換わる可能性」、および「教育水準(大卒以上かどうか)」と「置き換わる可能性」の相関性を見ると逆の相関がみられると分析している。つまり、今の雇用で賃金が安ければ安いほどその雇用がなくなる(=機械等に置き換わる)可能性が高く、また、労働者の教育水準が低ければ低いほどその雇用がなくなる可能性が上がるということだ。

 月並みな結論だが、将来、職を失い路頭に迷わないためには、最終的には「教育」が重要なのだと思う。

2014年11月3日月曜日

「グラスホッパー」 伊坂幸太郎

バッタの生息数が増え、その生育密度が高くなると、大型で遠くまで移動できる種類の個体数が増えるという。しかも凶暴になるらしい。人間も人口密度が高くなると、同じく凶暴になるのではないかということが中でも説明されている。(タイトルが「バッタ」でなく「グラスホッパー」であったのは、語感がよくなかったからか)

妻を殺されてしまった主人公の鈴木による復讐が話の展開の中心である。それに絡んで他の殺し屋である「鯨」や「蝉」の視点からも話が展開される。「鯨」は対象の相手を自殺させることで殺す「殺し屋」であり、一方、「蝉」のほうはナイフ使いの「殺し屋」である。「鯨」は過去の犠牲者の幻覚に悩まされる様が描かれているのに対し、「蝉」のほうは生粋の殺し屋で、女子供でも容赦ない。当初はあまり接点のなかったこれらの話が終盤に向かって一つになっていくところがよく構成されている。


気になった部分(カッコ内はキンドル版の位置)を以下に引用する。
扉があったら、開けるしかないでしょ。開けたら、入ってみないと。人がいたら、話しかけてみるし、皿が出てきたら、食べてみる。機会があったら、やるしかないでしょ(位置No.268)
亡き妻の口癖「やるしかないでしょ」を鈴木が思い出す場面が何度かでてくる。 そのうちのひとつの引用だ。 そういえば「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」はサントリー創業者の鳥井信治郎が残した名言だ。
わたしたちは、「やるしかないと考えるタイプ」と「やめとこうタイプ」に分かれるだろう。これらのタイプが混ざっているから今の人間があるのかもしれない。なぜなら、すべての人が「やるしかない」と思い、みんながみんな無茶なことをすると全滅の危険があるからだ。毒を含む動植物に対して、ヒトすべてが過去に「食べてみるしかない」と考えていたら今のヒトはいないかもしれない。
人間の知恵だとか科学は、人間のためにしか役に立たねえんだよ。分かってんのか?人間がいてくれて良かった、なんて誰も思ってねえよ、人間以外はな(位置No.3260)
「蝉」が死にゆく最中に幻覚との会話で吐いた言葉。この小説では「蝉」は少し教養のない若者として描かれている。その彼がこうしたことを言えるのは教養のない故か、あるいは本質的なことなのか? ある意味、本質をついている。なぜなら、例えば、環境問題が話題に出るときに「環境に悪い」という論理は、あくまでも「ヒトが住むための環境が悪い」ということで、ヒト以外の立場からみると、人間の活動や存在そのものが地球環境に悪いのではないかと思えるからだ。

素直にドキドキさせるエンターテイメント小説の部類であるが、読み方によっては、死生観を考えさせられる小説。

2014年10月30日木曜日

「What Kills Me」Wynne Channing

通勤の電車の中で細切れで読んでいた、kindleのペーパーバックについてである。そこそこのボリュームだったため、読むのに時間がかかった。
主人公のZeeがひょっとしたことから、バンパイアになってしまったところから話が始まる。しかし、実は特殊なバンパイアで、日光のもとでも平気な特異体質?なことがわかる。バンパイアは「体の傷を負っても修復される」とか、「日光の下では砂になる」とかの基礎知識がないままに読み進んだが問題はなかった。

話の展開で、各部分ごとにみると面白い。例えば、Zeeらがバンパイアの追手に追われて逃げながらも戦う場面は、単純にアクションとして楽しめた。ただし、全体の話の展開から見ると、序盤のなぞや疑問が解消されるわけではなかった。この本のタイトルに対する答え(誰が何のためにZeeを「殺した」のか)は明らかにされていない。そこは続編で明らかになるのだろうが、そのためには有料版を購入する必要がある。商売上手である。(はじめが無料で、その続編が有料であるのはKindleではよくあるパターンですな。)


繰り返しになりますが、キンドルだとすぐに単語を調べることができるので洋書読みには適しています。

2014年10月12日日曜日

「英語はインド式で学べ」安田正

英語を使って話す・聞くことを学ぼうとする場合、少なくとも一度は「○○式学習法」に挑戦しようとした経験があるのではないだろうか?ここでは「インド式」と呼んでいるが、その方向性は「グロービッシュ」とほぼ同じである。すなわち、発音は気にしない(=通じればOK)、余計な単語は覚えない・慣用句は使わないなどの点だ。難しい単語や表現を覚えて使う代わりに簡単な単語に置き換えて使えればいいのだと言われればその通りだ。しかし、「それが難しいんじゃないか」とツッコミたくなる。難しい表現をパッと簡単なものに変換できること自体が語学の才能の一部ではないかとも思える。

動詞に注意して、sound/find/giveと、それらを含む文章の構文を使えば、それほど苦労しなくても話せると言っている。「日本人はbe動詞やhaveを頻繁に使いたがる」ことを欠点であると述べているが、そうだろうか?本書で指摘どおり、be動詞やhaveで置き換えできない動詞の文章ではすんなり口をついてでない欠点があるのかもしれない。だが、できるだけシンプルに話すという思想に基づくならば、 be動詞やhaveをうまく使用していくほうが理にかなっていると思う。

とりあえずは自分の主張を話すためには有効かもしれない。ただし、聞く場合ではどうだろうか?相手が同じくノンネイティブであればよいが、ネイティブである場合にはそれをすんなりと理解できるかは疑問である(世界的にみればネイティブのほうが数が少ないとか、聞き取れなければ何度も聞き直せばよいとの意見はあるだろうが)。

ここで紹介されたメソッドである程度の効果は期待できるだろう。ただし、英文法の基本的な知識なしでは、直ぐに限界が見えるのではないか。
本書が示す「技術」に対する受け止め方は初級、中級、上級者で異なるだろうし、生かし方も違ってくると思う。

2014年9月28日日曜日

「怒らない選択法、怒る技術」 苫米地英人

本書のいう、怒るに値するための条件は以下の2つである。
1.相手に過失がありその過失によって自分に不利益が生じたとき
2.その過失が予想外だったとき
だから、買った株が下がったからとか、腹黒い上司が(予想通りに)手柄を横取りしようとしたとかいった場合には怒ることはないと述べている(いずれも予想できる事態だから)。
以前に紹介した「怒る技術」では、怒りの定量化(スコア化)や可視化、そしていかに怒りを静める(コントロールする)かが述べられていた。一方、苫米地先生は「怒るときは怒れ」と言っている。しかし、その怒りは単純な感情の爆発ではなく「目的を達成するため」の手段である。

怒るための作法についていくつかが紹介されている。
そのひとつは丁寧な言葉を使うこと。また、相手の発した激しい言葉に反応するのではなく、その裏にある思考を考えることが大切だと述べている。これについては、外交における相手の意図を読み取ることの重要性にも触れている。それは、中国や韓国の最近の動きが日本の怒りを買っている向きがあるが、それらの国の意図は国内の経済問題を外向きに転嫁することだというのだ。

怒りの場面における「それは常識だから」という常套句には疑ってかかれというのは、他の場面でもいえるだろう。例えば「みんなそうしています」という場合、「みんな」とは誰なのかとか、「通常はこのやり方です」の「通常」とはどんな状態かといったことだ。常識と関連して規定の「ルール」に対しても、それ自身が正しいものかをよく考える姿勢が必要であると述べている。オリンピックの種目で欧米がメダルを取れないとそのルール自体を変更したことが例示されている。

怒る上司に対しては疑問を呈している。
ビジネスの人間関係において、それは契約に基づく関係なので、そもそも「怒りに値する条件」を満たす状況は生じえないと。やることをやらないとか、十分なパーフォーマンスが得られなければそれは「契約」に基づき処遇をすればよいと述べている。ただ、そこに怒りの条件が整う背景としては、ビジネスにおける人間関係がプライベートに寄りすぎた場合に起こりうるのだと。日本では契約関係もあやふやであることが多く、確かに起こりがちなことだろう。
「怒られるうちが花」とも言われるように、怒られるうちはまだ相手の期待度が高いと前向きに捉えることはあながち間違いではないかもしれない。


怒りも、喜びや悲しみといった感情の一つで、例えば映画を見ていていろんな感情が表出したからといってもそれは「観客」としての間だけで映画館を出れば日常に戻る、だから、その感情を楽しめばよいというのはわかる。しかし、感情を引きずるから大変なんじゃないか? 自分の感情をモニターして客観的になることが感情に引きずられないためのコツなのではないかと思う。
ところで、「観客」と「客観」で文字の並びが逆なのは偶然?

2014年9月26日金曜日

飼い猫回想 [2]

飼い猫が逝ってちょうど2ヶ月が経った。

2002年に当時住んでいたアパートの階段でよちよちしていたネコを保護した。
妻は「雄に違いないから」といってジョニーと名づけた。
しかし、猫の常識として三毛猫であればほぼ間違いなく雌であり、あとでよくみたらやはり雌だった。当時は、そんな猫飼いとしての常識もなかった。

同居開始直後に布団で寝るジョニー(当時、推定2-3ヶ月)
ご多分に漏れず、そのアパートはペット可でなかったために同居を反対したのだが、結局はこっそり飼いが始まった。
お約束ではあるが、襖と畳は相当引っかき傷をつけられた。襖に関しては閉めると開けて入ろうとされてひっかかれたが、はじめから襖を少し開けていれば被害が少なくてすむことに気づいたのはずいぶん後になってからだった。

2014年9月14日日曜日

「サラリーマンだけが知らない好きなことだけして食っていくための29の方法」立花岳志

サラリーマンだけがとは、一概には言えない点もあるかと思うのだが、会社勤めから離れて自由に生きるためのポイントみたいなものを紹介している本だ。

サラリーマンとして働くのではなく自由に働くのを目指すのもわかるし、いつかは独立するのならば会社のなかで空気を読める必要がないという主張もわかる。しかし、大半の人間は会社からはみ出して自立するほどの能力がないと個人的には考えている。「人間努力すれば必ず報われる」とか、「人間は生まれながらに平等」であるというのは嘘っぱちであることくらい、二十歳を超えたオトナならば誰でも知っているはずだ。無理に周囲に迎合する必要はないが、「空気を読む」ことはフツーの人々にとっては大切な技術であると言いたい。

この本にも書かれていることに従えば、すべてのヒトが独立してうまくか?そうとは限らないだろう。それは本人の努力であり、才能であり、あるいは運や時代の流れの要素も大きいあろう。
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本書では29項目が紹介されている。

「14 仕事帰りの飲み会は「あとに続くものか」を考える」では、
飲み会を「投資的飲み会」「消費的飲み会」「浪費的飲み会」の3つに分類し、「浪費的飲み会」はやめるべきで、飲み会のあとにも続くような「投資的飲み会」で新たなネットワークを築くことが大切だと述べている。


「26 すばらしい出会いをとことん楽しむ」では、
投資的な飲み会でできるネットワークは、人脈作りというよりは、パートナーシップであり、そのパートナーもメンター、同志、サポーターの3つでそれぞれが重要だと述べている。他の本でもよく出てくるが、「メンター」の存在は重要であろう。なるべき自分をイメージするのは難しいが、そのイメージに近いひとをメンターとすると具現化しやすいからである。
その師匠のイメージに近づくために「TTP」を勧めている。本書から引用すると以下のようである。
憧れる人のライフスタイルを自分のライフスタイルに採り入れて、TTP(徹底的にパクる)をしてみるのです。
ようするに、その理想とするヒトになりきるくらいの真似(パクリ)をしてみようというわけだ。目に見えない考え方の部分を真似るために、ライフスタイルを真似るのは意外と効果的だと思う。


「23 人生を楽しみ続けるために、慣れを捨てる」では、
現在のコンフォートゾーンから抜け出して、理想のコンフォートゾーンを設定してそこに向かえといっている。例えば、貧乏から金持ちになれないのは、貧乏であることが「快適」であるためで、そこを抜け出すためには金持ちの状態を新たなコンフォートゾーンに設定する必要があるというのである。そのためには、例えば、安い居酒屋に行かずに、高級レストランに行き、「本来、自分はこういった高級店が似合っているのだ」という、一種の刷り込みが有効だとしている。他にも、きちんとした身なりをすることも高い位置へコンフォートゾーンを設定するためには有効であろう。外見や生活様式といった表面上のことをランクアップするだけで、潜在意識への刷り込みが起こるのではないかと思うからである。


「21 やりたいことがあるなら、やらないことも決めなさい」では、
一日は24時間しかなく、1時間にできることはかなり限られているので、何か新しいことを始めたいならば、何かやめることを一つ決めるしかないと述べている。上述の「浪費的飲み会を減らせ」も時間を生み出すための一つだろう。「やらないことを決める重要性」に関しては、以前に紹介した「悩める人の戦略的人生論」でも触れられている。
しかし、もしもお金があれば、いま自分でやっていることの一部をアウトソーシングすることも可能である。つまり、お金さえあれば、ある程度は「時間を買う」こともできるのであり、やりたいことを増やすことが容易となるだろう。お金があれば必ず幸せになれるわけではないが、お金があればそれと引き換えにできるモノは大きい。


フリーランス指向でなくとも、使える本といえる。

2014年9月13日土曜日

「Ellie And The Cat」 Malorie Blackman

Kindleで読む小説は、あまりきっちりした基準では選んでいない。しかし、猫好きなために、ネコモノを選ぶ傾向があるといえるだろう。今回読んだkindleペーパーバックは、ネコモノである。内容は、いわゆる「パンダ読み」に最適である。話の筋がわかりやすく、単語もそれほど難しくない上に、kindleなのに「挿絵」が随所に見られる。

[概要]
親の仕事の関係でおばあさんに預けられた女の子Ellieが、行儀がわるいことからネコのJollyと体を入れ替えられる。人間に戻してもらう条件は、おばあさんの無くした指輪を探し出すこと。ネコとなったEllieが、ネズミやクモの助けを借りて家の中をくまなく探すが指輪は見つからない。庭に落ちているのではないかと思って庭を探し始めたがその際に仲間のクモの一匹が井戸に落ちてしまい危ないことに… 助けようとすると探す時間がなくなりEllieが人間に戻れなくなるが、友情の大切さを知ったEllieはそのクモを助ける決意をする。指輪探しは時間切れかと思われたが…



ネコのJollyがどちらかといえば、あまりいい役として登場していない点が猫好きには不満かも。挿絵に描かれるクモはちょっとかわいらしくユーモラスです。
長編を読んだ後のパンダ読み用としてお勧めします。

2014年9月7日日曜日

「Trouble is her business」 V.Alexander

持っていかれたお金を取り戻すために、殺人事件に巻き込まれ、時には冷たい河に落とされて死にかけそうになりながらも真犯人を暴くサスペンス-があらすじだと思う。なぜ「思う」なのか?残念ながら自分の理解はその程度だったからだ。わからない単語を調べながら読み進めたが、やはり、十分にストーリーについていけなかった。細切れの時間で読むよりかは、ある程度まとまった時間を使って集中して読まないと楽しめない上級者向けの小説といえる。



‐‐‐単語、表現メモ‐‐‐
([ ]内のNoはキンドルでのページ)
■She probably married  Oliver just to get under his skin. [No.1107]
「いらいらさせる」

■Do you moonlight as a carriage driver, Darnel ? [No.1475]
「副業(アルバイト)をする」
Wiktionaryによると、米語と英語でニュアンスが違うようです(以下、引用)。
In American English, to moonlight is simply to work at secondary employment; in British English, it implies working secretly (i.e., not paying tax on the extra money earned).
そういえば、夜間に働く労働者はgraveyard shiftであったことを思い出しました。深夜の状態が墓地の感じを連想させるからでしょう。

■The door to her room was ajar. [No. 3189]
「ドアが半開き」のajarは6回登場しています。Weblioの「学習レベルの目安」では「大学以上の水準」となっています。サスペンスものの小説なのでやたらドアが半開きの状況がでているのかもしれないですが、私には馴染みのない単語です。

■I want you to arrest her as an accessory to murder. [No.3106]
「(殺人の)共犯」という意味。文脈から推定可能ですが、自分にとっては新鮮な使い方。

2014年8月31日日曜日

「メディアの臨界-紙と電子のはざまで」 粉川哲夫

本のベースが紙媒体でなく電子媒体へ移行するのは必然的な流れであると考えられている。しかし、紙に印刷された本が消滅するかは疑わしい。タブレットPCで本が読めるにしても、紙のページめくりや、その時の音を模倣していることから、やはり「紙っぽさ」を残したいのではないかと思う。その一方で、今後、紙に印刷された本を知らない世代が登場するときには、状況は変わっているのではないか。生まれついたときからモニターで読む習慣のある世代にとって紙媒体はどう受け止められるかは興味のあるところである。

電子メディアで読書は可能か? これに対して著者は、可能ではあるが、書籍を読むのに比べてメモが飛躍的に増えたと述べている。その理由は電子メディアが「前向性健忘」(数分以上記憶が保てない)を昂進させるからだとしている。そしてこのメモの必要性は、書架に並ぶ本の背表紙によって軽減されてきたもので、書架は記憶装置の機能を果たすとも述べている。しかし、最近はバーチャルな書架に電子書籍を配置することもできるので、どうだろうかとも思う。
自分も物理的な制約から書籍を増えないように努力しているが、バーチャルな世界よりもリアルな書架から本をひっぱりだして参照するほうがやりやすいと感じるだろう。個人差もあるだろうが、これからの世代では書架を参照することに馴染みがなくなるのだろうか?

紙の本をめくらなくなったように、お金に関してもカード化が進み、支払い時にお札を数える機会が少なくなった点を挙げているのは面白いと思った。本と違い、紙幣に関してはクレジットカードや電子マネーに分があるだろう。

本だけでなく、映画からテレビそしてインターネットの時代とメディアの変容について考察されている。随筆スタイルであるが、後半は哲学の素養がないとついていくのがしんどい。

2014年8月26日火曜日

飼い猫回想

7月26日から1ヶ月が過ぎた。うちの猫が死んでから1ヶ月である。猫の様子に変化が見られてから4ヶ月でこの世を去った。当初は、猫に対してもう少し距離を置いて付き合うつもりであったが、さすがに12年あまりも同居していたので、もはや家族同然であったと認める存在となった。

通常考えると、ネコのほうがヒトよりかは短命なわけで(15年生きれば長生きのほう)、ほぼ間違いなく飼い主よりも先立つのが早いことは明らかである(飼い主が「老人」であれば状況は違うでしょうが。事実、里親募集の条件で「60歳以下」を挙げているのもある。)つまり、飼い主は飼い猫を見送る覚悟が飼い始めた時点で必要なのだ。その覚悟が「あやふや」だったために、今、いろいろと後悔することも多い。常々、「やらないで後悔するよりはやって後悔することを選びたい」と言っておきながら、判断が遅れてしまっては「やっても結局、後悔の念は大きいのだ」と、今回の猫が死んでしまった件で認識した。

元々は野良猫であったが、成り行き上、飼う羽目になってしまった飼い猫。その時期の猫との出会い、そして、先月の別れ、ひょっとすると、その出会いは偶然ではなく、また、先月の別れもその役目を終えた故の必然だったのではないかと思ったりする。

そのうち、猫の病状と、どういう経過をたどったのかをまとめたい。しかし、まだ、気持ちの整理がついていないし、あまり思い出したくないこともある。ネコに対して「49日」とかヒトの場合をあてはめたくないが、起きたことを冷静に見つめなおすためには、そのくらいの時間が必要なのかもしれない。

2014年8月18日月曜日

ミニマリズム考

断捨離ブームが続いているかどうかはわからないが、できるだけ持ち物を少なくする生活スタイルを指向することには興味がある。そう考え始めてから、本に関しては「蔵書のミニマリズム作戦」として、かなり溜まってしまった本に関しては買取業者に中古で売っ払ったり、電子化サービスの業者に依頼して電子ファイル化ををすすめてきた。

本を買い続けると、その収納場所が必然的に必要なわけで、それを阻止するには、
   (1)本を買うのをやめる
   (2)買った分だけの本を同時に処分して所有数を増やさない
しかない。

財力にものを言わせて、物理的な制約を取り払えるならば、
   (3)買った本だけ、本の収納場所を増やす
ことも可能であるが、自分も含めた一般人には無理であるし、ミニマリズムではないだろう(でも、(3)ができる状況のヒトはうらうらやましい。)


持ち物を減らすといっても、どこまでがシンプルであるかは人それぞれの考えによるだろう。あまりにも究極の姿を求めると、お坊さんレベルにまでいく可能性もある。それでもまだ、日本の坊さんであれば、結婚したり、カラオケにいったり、酒飲んだりも可能だが、上座部仏教の坊さんの場合にはまさに究極のシンプルライフといえるだろう。

タイの田舎の寺院にて撮影.
僧侶レベルであれば、ほぼ何も持たないミニマリズムの究極形でしょうか.
猫や犬はよく寺院で見ますが、野良が保護されたものらしいです.

ものをどんどん減らすといっても、それでは、ペットはどうなのだろうか?ネコであっても、モノではなくもはや「家族」同然であれば、減らす対象とはならないのかなあ。我が家の飼い猫が逝って3週間余り、ネコとヒトの距離感に関していろいろなことを考えてしまうのであった。

2014年8月10日日曜日

「働かないオジサンになる人、ならない人」楠木新

「働かないオジサン」と言われて、想像するオジサン像は人それぞれかもしれない。ここでは、サラリーマンの職場における「働かないオジサン」の分析と、そうならないためはどうすればよいかを示している。(なお、同じ著者の「人事部は見ている」を以前に紹介した。そちらは「会社の歩き方」とも呼べる内容だった。)

面白いのは、「働かないオジサン」の特徴として、「いい顔で働いていない」ことを指摘している点である。本書で類型化されているタイプでいえば「無気力タイプ」を想像するとわかりやすいだろう。

働かないオジサンを生み出す構造的問題が日本で特有なものだとし、その理由として「新卒一括採用」と「ピラミッド構造」の2点を挙げている。一般的に日本では、まとめて採用し、しかもその際にみんなが「同期」としてスタートすることになる。引き合いに出されていた銀行の例を考えるとわかりやすいだろう(ドラマ「半沢直樹」の感じですね)。また、そのなかではピラミッド構造のためすべての人が、課長や部長や社長になれるわけではなく、そうならなかった人は「働かないオジサン」化する可能性がある。この仕組みはサラリーマンの世界特有というよりは、官僚の世界のほうが顕著であろう。だからこそ、上位のポジションに登れなかった時点で関係省庁や関係団体に「天下る」システムができたのだろう。

日本的雇用の慣習の特徴として「メンバーシップ契約」を指摘している。会社と従業員は所詮「契約関係」でつながっているが、日本では被雇用者間でも、あたかもクラブのメンバーのごとく相互に協力することが前提となっている。これは「契約」とは文面化されてはいないが、入社面接では「みんなとうまくやっていけること」が前提となっている点を考えると理解できる。だから、定時になってもみんなが帰る時間でないと帰らないとか、飲み会には参加するとかいう傾向を招くのだろう(今の20代の世代では変わっているかもしれませんが、私の世代ではそうでした)。

これらの考察で、少し残念な点は日本以外の雇用状況との比較が十分でないと感じられる点である。もしも著者が外資系あるいは海外企業での経験があれば、さらなる考察ができたのではないかと思う。


40歳で遭遇する、組織で働くことの意味に悩む状態を「こころの定年」と呼び、人生の定年(死ぬとき)、就業規則上の定年と分けていることは興味深い。この「こころの定年」に正面から向き合っていない状態が働かないオジサンを生み出していると考察している。

最終章では「働かないオジサンにならないための7カ条」が示されている。第4条の「師匠を探せ」、第5条の「お金との関わり方を変える」は、他の本でもよく言われることだ。つまり、よいメンターを見つけろとか、仕事に直接関係しない飲み会では経費を使わずに身銭を切ろとかいうことである。


想定される読者は若いサラリーマンでしょうか。働かないオジサンへの対処法も記述してあるので、実用性はあるでしょう。
現在の20代が、働かないオジサンとなるかもしれない年代までサラリーマンとして勤めているかは疑問ですが、今、見られるそうしたオッサンを反面教師として学ぶ点もあると思います。

2014年8月3日日曜日

「A French Girl in New York」 Anna Adams

キンドルでペーパバックを読んでいるが、基本的には通勤の電車の中でだけだ。帰りはぐったりしていることがあるので、その場合は読まない(というか、読めない。なぜなら、必要な集中力が減退しているので。)
それでも少しずつは進んでいるわけで、ようやく、この軽い小説を読み終えた。英語ネイティブであれば、主人公と同年代のティーンエージャー向けだろう。

あらすじ:
両親もわからず、ほとんど召使同様の待遇で育ての親に育てられていた少女Maudeが、ふとしたきっかけでニューヨークの音楽プロデューサーに才能を見出される。フランスからニューヨークに連れ出されるための手続きや条件で難航したものの、ついにフランスの田舎からニューヨークに行くことができた。そこで、身近な人間の裏切りなどがあったものの最終的にはデビューを果たす。ただし、ニューヨークに行くのは期限付きであり、半年後には元のフランスの田舎の育ての親の家族の下に戻らなければならなかった。メジャーデビューを果たしたにもかかわらず、フランスの育ての親から離れる条件は、半年後にはフランスに戻り、さらに召使同様の生活を強いるという契約だったのだ。しかし、その契約自体がおかしいことが証明され、Maudeは再びニューヨークに戻ることができた。(めでたしめでたし)。

と、あらすじを書いてみたが、全然おもしろそうでない(w)。そうではなく、ストーリーの展開のなかには、男女間の心理的な描写や、なぜ、Maudeが孤児になり、どういった経緯で育ての親に預けられることになったのか、また、新たな家族とのつながりが明るみになるところも織り込まれており、小説として楽しめると思う。ただし、ノンネイティブ(少なくとも私のレベル)にとっては、Kindle上で随時単語チェックはかかせなかった。




‐‐‐単語、表現メモ‐‐‐
([ ]内のNoはキンドルでのページ)
■squeeze someone's arm
人の腕をぎゅっと一瞬力をこめて握る《友情・感情・共感・同情などの気持ちをこめた友好的接触動作》[出典:しぐさの英語表現辞典]

"Dad said you knew all the classical composers?" asked Jazmine, squeezing her arm excitedly.[No.1017]

MaudeがNYで世話になることになった家族の一員であるJazmineが、Maudeがクラシックに造詣の深いことを聞いていたことをMaudeに確認する場面です。実は、最初はこの文の意味がつかみにくかったのですが、その理由が見直してわかりました。文法上はherがMaudeでなくてJazmineであることも可能だからです。しかし、自分の腕をぎゅっと握ることはほぼないと考えられれば、すんなりと意味がわかります。
簡単な単語でも組み合わせ等によって別の意味を持つ場合もあるので侮れないです。

2014年7月21日月曜日

「逆境経営」 桜井博志

日本酒の「獺祭」を作っている、山口県の旭酒造社長が著者である。ほとんど廃業の危機にあった酒蔵を急逝した父親から引き継いで、そこからどのようにして持ち直したかという内容だ。

かつて日本酒は地域で消費されるのが通常であったが、東京を市場としたマーケッティングや、さらに、海外へと展開を図っている点が、これまでの地方酒造会社とは異なる点だろう。また、その方向性として、海外に合わせた品質(味)とするのではなく、あくまでも「日本酒」としての味は変えないとしている点が経営方針の特色だろう。世界展開している食品メーカーの例をみてみると、世界ブランドとして同じであってもその味をローカルにカスタマイズしていることが多い。(たとえば日本茶のペットボトル飲料で、甘味料が入っているものなど海外で見かける。)どういった戦略をとるかは経営として重要な点であるが、旭酒造のぶれない「日本酒」が世界で通用するのか、今後を見守っていきたいものである。

日本酒の製法に関しても、これまでの杜氏制度から、自社の社員が酒造りするシステムに変えたり、また、年間を通じて酒造りを可能なやり方を導入したのは、地方の酒蔵としては画期的だ。ただし、これも、経営の危機からの逆境から生み出されたことである。「杜氏がいないなら自分たちで、職人しかできないことであればマニュアル化し指標を明らかにし品質管理する」という路線は、まさに「だれでもできる」ための仕組みづくりといえるだろう。今後、製造規模を拡大するらしいが、これらの管理手法があってこそ「拡大路線」が可能だと思う。なぜなら、小スケールの生産で、管理を「経験と勘」に頼っている場合、同じ味をスケールアップで出すのは難しいからである。

「いいものをつくる」という理念に加えて、「どこで売っていくか」を考えている点(=地方ではなく、お東京や海外を販売先としている点)で、経営のセンスがあるのではないかと思う。

2014年7月13日日曜日

“猫バカ”な自分を省みる


「猫馬鹿」とはよく言ったもので、その当人たちにしか馬鹿たりうる理由がわからないだろう。そういう自分もいつしか「猫馬鹿」となり、「馬鹿猫」と暮らすことになってもう10年以上となる。(なんだか、「馬鹿」が「バカ」ではなく「ウマシカ」とも読めてしまうので、カタカナ表記で以下続けます。)

我が家のバカ猫もついに体調が悪くなり、猫バカの自分としても心穏やかでない。非猫バカの立場から考えると、「たかが猫」である。しかし、猫バカからみると「されど猫」ではないか。猫なんて所詮人間さまには及ばないし、それほど飼い主のことを考えているとは思えない。犬であればもう少し飼い主に対する忠誠心があるだろうが、猫ではむしろ飼い主が猫の奴隷である。だから、「猫バカ」はあっても「犬バカ」はあまりなじまない。

猫を飼い始めるのは自分の意思ではなかったし、また、「猫は猫、人は人」というポリシーを貫くつもりだったのだが、結局は猫バカと化してしまった自分がいる。「猫の魔力」である。猫は人間を支配するために送り込まれてきた生物だとどこかで聞いたことがある。阿片のように国を滅ぼすほどのパワーはないにしても、「猫地球侵略陰謀説」はありうるかと思う(その説を信じ始めたことがすでに猫バカの兆候だろうw。)

散歩中にであった猫たち。
ノラ猫の中に三毛猫を見つけると、他人(他猫?)とは思えない。
ノラ猫との付き合い方はいろんな意見があるでしょう。

2014年7月1日火曜日

2014年の折り返し点に思う


6月が終わり7月が始まった。2014年というスパンでみるとほぼ折り返し点だ。ブログの上からほぼ1年前を振り返ると、だんだん当初の趣旨通りには進んでいないことがわかる。
他人に向かって「この前言っていたことと違う」と感じることがあるが、ブログで過去を顧みると、むしろその自分自身さえも、以前に書いていたことと、今書いていることが違っていたりする。「所詮、人間はそれほど一貫性がないものだ」と、どこかに書いてあった気がする。変わりすぎるのも問題だが、適度な加減で一貫性を欠くのも人間らしいと思う。


この前のスカイプ英会話のレッスンの教材は「死ぬまでにやっておきたいこと10」だった。そのイントロでイギリスの政治家セシル・ローズの最後の言葉が引用されていた。
“So little done, so much to do.”
(だだし、英語版のWikiでセシル・ローズの項目を見てみると、misquoteであると記載されている。)
1902年没で、当時としては48歳は「早すぎる死」 といえるかはわからない。死ぬ前に「やり残したことが多かった」「(自分のやったことに対して)まだやりたいことがあった」という意味だろう。

ヒトは終わりが先だと思うからこそ焦らないのだろうか。学校の夏休みも「まだ終わりは先だ」と思うからこそ、だらだらと過ごしたのではないのか(少なくとも自分の場合では。)大抵、死ぬのはまだ先だと信じている(あるいは信じていたい)から、時間の大切さを忘れてしまうのだろう。

人生の過程では、がむしゃらに「がんばる」時期もあれば、ぷかぷかと「流される」時期もあると聞いたことがある。流れに逆らって体力を消耗してしまうこともあるので、時には流れに身を任せるのも悪くないかもしれない。


2014年6月22日日曜日

「最高の自分を引き出す法 ~スタンフォードの奇跡の教室 in JAPAN」 ケリー・マクゴニガル


某国営放送の番組でTEDを取り上げている。
その番組で、ケリー・マクゴニガル(Kelly McGonigal)の以下のプレゼンが紹介されていた。

How to make stress your friend
https://www.ted.com/talks/kelly_mcgonigal_how_to_make_stress_your_friend

その彼女の日本での講演がDVD付きの本として出ていたのでそれを購入した。本は英語と日本語で講演内容が文章化されており、本にDVDが付いているというよりは、DVDに和英のスクリプト本がついている感じで、事実「DVDブック」と表示されている。

DVDは日本語吹き替えと、英語音声があり、後者ほうは英語学習にも役立つだろう。話す速度は速いが、非常にクリアな発音であり聞き取りやすい。大学の先生は講義するのも仕事の一つなので、話すのは得意に違いないだろうが。
ただし、DVDでは、講演中に同時に使用されたプレゼンの絵はほとんどでてこず、彼女が講演する姿がほとんどである。したがって、集中しないと内容についていけなくなりそうになった。おそらく、講演会場でプレゼンに使用されたスライドとともに聞けばもう少し理解が容易になるだろう。そのDVDの構成でよい点といえば、彼女の話に耳を集中させつつ、その口元にも注意を払える点であろうか。

「今の自分」のイメージと、「将来の自分」のイメージとを一致させることの重要性は他の本でもよく言われていることだ。ただし、ここで説得力があると思うのは、心理学的な実験に基づいて理論的な裏づけがある点だろう。「低血糖値が脳の判断状態にマイナスの影響を与える」ことに関しても、血糖値を人工的に変化させて調べた実験結果に基づいて論じている。



「意思の力」に関して以下の原書を読んでおけば、英語で聞き取りはもっと楽なはずだと思われるので、できれば、今後読んでみたい。
The Willpower Instinct: How Self-Control Works, Why It Matters, and What You Can Do to Get More of It

2014年6月15日日曜日

「The Great Gatsby」 F. Scott Fitzgerald

キンドルで読んだのだが、残念ながら通勤電車のなかで、細切れの時間を使って読むには難しかった。自分のレベルでは、じっくりと部屋のなかで腰をすえて集中して読まなければ理解できない部類なのではないだろうか。大筋はわかったが、何が面白いのかが分からずじまいでおわったのであった。



この無料版以外にもキンドルで利用可だが、内容に違いがあるかはわからない。なお、映画版は原作と完全に同じではないようだ。
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これまで、知らなかった表現を以下にメモっておきたい。
■lick shoe
「靴を舐める」のは卑屈な態度だとは理解できるが、あまりピンとはこない表現だ。
Weblioで調べると、この小説からの引用と日本語訳があった。
そのままWeblioから引用すると、
"I thought he knew something about breeding, but he wasn't fit to lick my shoe."
「家族を養うことくらいは知ってると思ってたんだけど、あたしの靴を舐める資格もない男だった」
個人的には、日本語訳を見てもすんなりとは理解できないので、原文の難しさは当然であろう。


■throw dust in a person's eyes
He threw dust into your eyes just like he did in Daisy's but he was a tough one.
「人の目をくらませる。人を欺く」
「目をくらませる」→「欺く」という広がりなのだろうが、「欺く」を知らないと難しいだろう。

2014年6月9日月曜日

「猫は音楽を奏でる」 ねこ新聞監修

作家を含めた著名人のエッセイ集で、それぞれの長さは4ページ程度と短い。したがって、本当の細切れな時間に読むのには最適な構成だろう。もともとは「ねこ新聞」に掲載されたもののようだ(「ねこ新聞」なるものがあるとは知りませんでした。)

「猫好き」が読めば、大いに共感することが大いに違いない。また、「非猫好き」が読めば、猫バカとバカ猫の世界を理解する足がかりとなるだろう。

自分の過去を顧みると、飼い猫に影響されたことは否めなく、ひょっとすると人間のパートナー並の影響度があるんじゃないかと思うことがある。このエッセイ集を読むと、猫の影響力はやはりすごいと認めざるを得ない。


【余談】
英語タイトルの副題は、"The cat plays music."とつけられている。
英文法の本を参考にして解釈すると、
The cat plays music.[他の種と区別して、猫というものは~]
というニュアンスなのだろう。

ちなみに、他の可能性としては、
A cat plays music.[いかなる猫でも]
Cats play music.[一般的に猫は(口語的)]
The cats play music.[ある地域にいる、などある特定の猫が~]
があるが、なんとなく、「犬は奏でないけれど、猫は奏でる」意味であれば"The cat plays music"正確な訳なのだろう。

2014年6月1日日曜日

「開高 健 電子全集7 小説家の一生を決定づけたベトナム戦争」

開高健の「輝ける闇」は小説であるが、その元になっているのはベトナム戦争における従軍記者としての経験である。その従軍記者としての期間に書かれたルポルタージュや小説、エッセイを中心にまとめたのがこの電子全集7である。

個人的には映画や小説に対しては2種類の人間がいると思っている。すなわち、同じものを何回も見たり読んだりすることが好きな人間とそうでない人間だ。自分は後者に属するので、同じ映画を何度もみることはまずないし、小説でも同様である。全集のこの巻中のベトナム戦争ルポを凝縮したものとして「輝ける闇」が書かれたことを認識していなかったため、なんだか同じものを読んでいる感じがしたことは否めない。

今や、ベトナム戦争もはるかに昔のこととなってしまった。ルポ以外に、著者が新聞や雑誌に寄稿した記事も紹介されている。それらによって当時のベトナム戦争に対する日本国内の空気を感じることができるであろう。


やはり内容を詳しく読むためにはインドシナ半島の歴史とか、フランスの教養などが必要かもしれないと感じた。図書館にも開高の全集はあるが、同じテーマでまとまって読むにはこのシリーズはよいかもしれない。

2014年5月18日日曜日

「「一体感」が会社を潰す」 秋山 進

副題として「異質と一流を排除する〈子ども病〉の正体」とある。著者は、個人、組織文化そしてマネジメントが「コドモ」であるか「オトナ」であるかで区分しており、従来の日本企業に見られた「コドモ」の状態ではダメなのだと言っている。その「コドモ」の組織とは、競争力の源泉は標準化力と同質性にあり、組織は一体感で結ばれており、個人間の関係は摩擦回避の上で成り立っている組織だとしている。それに対する「オトナ」の組織とは、競争力の源泉は専門技術力と異質性にあり、組織はビジョンや理念でつながり、個人間の摩擦が発展の糧になる組織だと特徴付けている。

企業に身を置く場合でも、「専門性の高いところで勝負しろ」といっていることは至極まともではあるのだが、現実的にそんなに能力の高い人はいるのか? 残念ながら、能力に恵まれ努力が報われる「プロフェッショナル」な企業人は一握りしかいないと思う。(誰もがイチローのように大リーグで活躍できるわけではないのです。)
すべての物事にはすべてよい点もあれば悪い点もあり、日向の部分があれば日陰の部分もできる。なので、著者は従来の日本的な企業のあり方を「コドモだ」として批判しているが、物事はそれほど単純化できない、というのが私の率直な感想である。

個人間の摩擦を恐れてはいけないし、その点については「電通鬼十則」からの引用もされている。ただ、摩擦が常にOKかといえば、そうではなく状況によるのではないか。なぜならば、論理の正しさと感情との関係を完全に断ち切ることは不可能だからである。たいてい場合、意見の対立が生じても、「正しさ」だけに基づくのではなく、うまいこと「落としどころ」を見つける能力も必要であるに違いない。他人のことを考えず全く摩擦を恐れる必要のない人間とは、ほんの一握りの卓越した人間だけであろう。

キャリアに対する考え方として、自立軸として、丁稚→一人前→一流、自律軸として、他律→自律→統合律のマトリクスでキャリアの段階をプロットできる方法が示されおり、今後のキャリアを積み重ねていこうと考える人にとっては役立つ本である。


「10年後に食える仕事食えない仕事」 でも書いてあったように、「無国籍ジャングル」で生きていけるのは極わずかの一流しかいない。超一流以外の人には、「無国籍ジャングル」で戦う以外の別の戦略があって当然だろう。

2014年5月6日火曜日

「僕がグーグルで成長できた理由」 上阪 徹

タイトルと著者を見て、この著者が「僕」(=グーグルの人)かと思ったが違った。この本は、著者がグーグル日本法人幹部の徳生(とくせい)氏へインタビューして構成されている。徳生氏の高校中退後から、その後のアメリカ生活とベンチャー企業での経験、そして、グーグルに入社してからのことが書かれている。ホリエモンの経歴と対比してもおもしろい。

高校3年で中退して渡米し、それからコーネル大を卒業後にスタンフォード大の大学院に進んだという徳生氏の経歴からみて、非凡な能力を感じる。一度だけの日本の大学受験制度に対して、アメリカではチャンスが多いし、総合的に判断されるから渡米を選んだと述べている。また、受験制度だけではなく、勝ち組負け組と固定されるのではなく何度もチャレンジできる文化がアメリカにはあると述べている。(結果がよくない場合であっても、英米ではその過程を評価する"Good try!"の言い回しがあることからもうかがえる。日本語では見当らない気がします。)


グーグルのすごい点はわざわざ言うまでもないだろうが、以下挙げてみる。
1. 会社としての目標が途方もなく大きい。
”ムーン・ショット”や”10x(テン・エックス)”といったキーワードがよく使われる。かつて行われたアポロ計画の月面着陸級の偉業や、今の10倍の価値を目指そうというビジョンを持つ。

2. 経営陣が世界の全社員に向けて毎週ライブミーティングを行っている。そしてライブで従業員の質問に対応する。(5万人規模の会社で、だ。)

3. 物事を徹底して数値で判断する。
その元となるデータから切り出して数値化し判断材料として示す。そしてそれをどう可視化してプレゼンし理解してもらうかも重視される。


リーダーシップに対しては、少ない情報でも決断を下し周囲を説得することができなければいけないと述べている。判断が正しくできるほどの情報を迅速に集められるほうがまれであることは容易に想像できるし、判断材料を十分にそろえようとすれば判断時期が遅れるだろう。
徳生氏がキャリアコーチに言われて心に残った言葉として、
"You don't always know if you are right. But you can work like hell to make it right."
「正しいかどうかは分からなくても、がむしゃらに努力して正しくすることはできる」 
を紹介している。結局は、どんなにすごい人であっても、がむしゃらになることが必要なのだろう。(余談ですが、「結婚相手の選択とその後の生活 」とも共通しているかもしれません。相手の選択がベストかは不確定ですが、ベストにすべく努力することは可能ですから。)



グーグルはすごいが、徳生氏もすごい。ただ、その裏には努力があり、ただ羨むだけでなくその姿勢には見習うべきものがある。

2014年5月3日土曜日

「ゼロ-なにもない自分に小さなイチを足していく」 堀江 貴文

ゼロに何をかけてもゼロのままである。だからゼロの状態にまず必要なのは足し算(=自分の地力を底上げする)で、それは小さなイチでかまわない。小さなイチは自分への信用すなわち自信である。「成功へのショートカット」を求めて、掛け算(=他者の力を借りる)をしようとしても「ゼロ」では何も進まない。
 以上が本書のエッセンスである。

著者の幼少時代から世間で大きく注目されるまでが振り返られている(自伝と呼んでもいいだろう。)また、働き方やお金に対する考え方が書かれているが、「お金から自由になる」などの見方は他の本(たとえば本田健)と同様である。

著者が非凡であると感じられる話は、小学校時代の家庭環境である。家庭でまともにあった唯一の蔵書である百科事典全巻を、始めの「あ」の項から最終巻までをひとつの読み物として通読したと述べている。ネットのなかった当時から網羅的な情報を求めていたと振り返っている。この話が事実だとすれば、幼少から既に凡人でなかったといえるのではないだろうか? (ビル・ゲイツにも「10歳の誕生日を迎えるまでに、家にあった百科事典を最初から最後まで読破」の逸話があるようですが、偶然の一致なのでしょうかね?) 

自分で自分の限界をつくっているのは意識の差であり、物事を「できない理由」から考えるのか、「できる理由」から考えるのかの違いだと述べている。同じことだが、「できない理由を考えずに、どうしたらできるのかを考えよ」というのを耳にしたことがある。できない理由を挙げることは簡単である。しかし、それでは限界をつくるだけである。できるための方策を考えることが重要であることは間違いない(大抵は難しいが。)

成長のためには小さな成功体験の積み重ねが必要で、成功へのステップを以下の3つに分けている。
①挑戦……リスクを選び、最初の一歩を踏み出す勇気
②努力……ゼロからイチへの地道な足し算
③成功……足し算の完了
興味深いのは、挑戦と努力をつなぐのは努力でありそれこそが重要なのだと強調している点だ。
努力のポイントとして、そのことに没頭することを挙げている。すなわち、受験勉強であっても、それを「ゲーム」のようにして没頭できれば、それは大した努力でもないと述べている。自分の経験と照らし合わせると、まったく同じことを感じた経験がある。それは、社会人になって一時テレビゲームをやるようになってからだった。あるソフトでステージをこなしていくためには、それなりにやりこむことが必要であった。で、やりこめばだんだんとうまくなっていき、達成感も味わえた。ふと思ったのが、「ゲーム」が「勉強」に置き換わってもそのプロセスが同じではないかということだった。ゲームがなかなかうまくならなければ嫌いになると同様に、勉強してもさっぱりいい点がとれなければ嫌いになる。

「チャンスがきたらそれに飛びつけ」の部分で「桃太郎」の例を挙げ、流れてきた桃に飛びついたからこそ話が始まったのであり、さらに、その時に躊躇する必要はないと述べている。実際には、「流れてきた桃」に気づくだけの感性が必要であろう。そのためには、常に頭を活性化させておく必要がある。「飛びつく」前に、気づくかどうかが、非凡かどうかの違いではないだろうか。

時間については、それはまさに命そのもので、他人の無駄話に命を削られたくないといっている。ただ、飲み会やゴルフはそれに集中する時間で時間の浪費ではないといっているのは面白い。自分の時間を生きればよいということであろうか。
その一方で睡眠時間を8時間確保し、起きている時間に集中して仕事の質を高めればよいといっている。もっと睡眠時間が短いかと思っていたので意外である。

あれほど精神的な強さを持っているように見受けえられた著者であるが、死に対する恐怖を語っている。仕事に熱中している限りは死について考える必要がないとすると、著者の努力の源泉は死の恐怖を紛らわすためなのかもしれない。

働き方を考える上で参考となる本である。

2014年4月29日火曜日

「国際共通語としての英語」 鳥飼 玖美子

言葉はそれが使われている国の文化と完全に切り離して考えることはできないが、英語を国際共通語として位置づけて、できるだけ「文化的負荷を軽くする」のがよいのではないかと述べている。したがって、非ネイティブに対して使用した場合に通じるかが不確実な、しかし英米人にとっては馴染みのある慣用句をあえて学ぶ必要はないし、単語の選択でも多少ネイティブが違和感を覚えたとしても意味が通じればよいだろうといっている。これらの観点は、いままで自分の持っていた国際共通語のモヤモヤしたイメージを具体的に説明するもので、胸のつかえがとれた思いがした。そうはいいながらも、決して文法や読み書きの重要度が低いのではなく、むしろ、文法はきちんと教育することを支持している。


言葉と文化のつながりで、EUの例はなるほどと感じさせられた。知らなかったのだが、EUは政治経済統一の動きがあったが、言語に関しては、公用語が23言語で英語だけが公用語ではないようなのだ。つまり、各国の文化を尊重することは各言語についても同様であるという思想による。


日本の英語教育の学習指導要領について、そのなかで「コミュニケーション」という言葉が再三登場することに対し、「英語のコミュニケーションとは、単に英語を使って会話できることなのか?」と疑問を投げかけている。いわゆる「英会話」だけがコミュニケーションではなく、読み書きでも、黙っていることでも、コミュニケーションであり、それは言語と文化が密接に絡み合って生み出されると述べている。
他の外国語教育研究者の分類を引用し、コミュニケーション能力の4つの要素は次のものだとしている(カッコ内は著者による説明。)
①文法的能力(語彙や発音も含んだ言語全体に関する知識)
②社会言語学的能力(誤解を受けないように社会で適切に言葉を使える能力)
③方略的能力(コミュニケーションがうまくいかない時に聞き返したりするなど対応できる能力)
④談話能力(相手がわかるようにまとまりをもって書いたり話したりできる能力)
この4つの要素をみると、特に②や④は母国語であっても相当に高度な能力であることがわかる。母国語をまともに使えないと、英語でも無理なのは当然であろう。



本書は「どういった目的で英語を学ぶのか(あるいは教育するか)」を考えるためのヒントを与えてくれるだろう。

2014年4月26日土曜日

「日本の人事は社風で決まる」 渡部昭彦

「日本の」というよりは、「日本企業の」人事と言ったほうが正確であろう。実際、外資系企業との話は別のものとして論じている。
副題にもあるように、社風とはコトバでは表現できない暗黙知であるとしている。そして、社風を決める要因として、ビジネスモデルを規定する顧客との距離、資本形態(=株主は誰か)、会社の歴史の3つを挙げている。(なお、ここでは詳しくは言及されていないが、企業が合併していく過程で社風がどのように変化するかは興味のあるところだ。)

「社風と採用」の章は興味深い。なぜなら、新卒採用は人事部の面接では、最初の3分で決まるといっているからである。当然、そこまでには選別も行われるだろうが、結局は、会社の社風をよく反映する人事部が「暗黙知の」社風で決めるというのである。つまり社風に合いそうになければ採用されないといえる。
この事に関係して、以前にある会社の人事担当が「自分の上司は、とにかく人を見る目は間違いがない」といっていたことを思い出した。はっきりと規定できない判断基準(それは往々にして社風だったりする)を人事部長(級)の人は使うことのできる技量を備えているということだろう。

社風を知り、できるだけ社風にあわせることで出世できるが、大事なことはライフワークバランスと、社内の人間との距離での立ち位置にあると述べている。すなわちワーカホリックと私生活重視のどの辺とするのか、また、従来の日本企業でみられたウェットな人間関係なのかドライでいくのかの立ち位置である。また、自分のいるべき立ち位置を知っても社風に会わないと気づいたときには、他の会社に移ることも視野にいれてよいだろうと述べている。

この本は、外資系ではないことを前提としているので、スペシャリストとしてキャリア形成を考える人にとっては関係ないかもしれない。(外資系には「社風」はないと著者は言っている。)ただし、自らの技量ひとつで食っていける世界は相当厳しい。そんな仕事の世界は、「10年後に食える仕事食えない仕事」で示されたカテゴリーでは「無国籍ジャングル」の部類だろう。

終身雇用を選ばないにしても、生きていくうえでは、その場の空気を読み取る力がその人の人生を左右するとも言えるのではないだろうか。



2014年4月13日日曜日

「漂えど沈まず-闇三部作」 開高健 電子全集1

開高の著作で「闇三部作」と呼ばれているのは、輝ける闇、夏の闇、花終る闇の3作である(ただし、「花終る闇」は未完)。図書館に行けば開高の全集もあるので、その本を読んでもよかったのだが、移動中に読むためにはかなりかさばると思い、電子版を購入してキンドルで読んだ。

「輝ける闇」では、ベトナム戦争に従軍記者として取材に行った話で、小説というよりもほぼ実体験を反映しているのであろう。「生と死」について考えさせられた。特に人間の状態を物理的な構造物として記述している点がよくでてくる。
例えば、兵士との会話の際に、
「彼もまた一群の骨に薄い膜をかぶせて内臓が滝のように落下するのをふせいでいる」
とあり、結局はどんなに強靭に鍛えられた肉体であっても、銃弾を受ければ袋が破けるように死に至ることを想像させる。
一部、官能小説的な部分も含まれるが、それもまた生きる意味を考えさせられるものだ。当時のベトナムの問題や状況も含まれるが、より理解するためには、ベトナム戦争の経緯や背景を知っておく必要があるだろう。

主人公は「匂いのなかに本質がある」と言い、小説を書くことについて、
「匂いは消えても使命は消えない」から、「使命を書く」といった兵士に対して、
「使命は時間がたつと解釈が変わってしまうが、匂いは変わらない。だから匂いを書きたい」
と言っている。
「使命」は時間とともに解釈が変わるということは、まさに、歴史を振り返り、過去の戦争をみたときにその解釈が変わりうるからといえるからなのではないか。


「夏の闇」は、前作と同じ主人公であるという設定だが、別の女性との関係を追ったストーリーである。電子版に付随している、あとがきや論評を読むと、それなりの傑作であることが書いてある。しかし、私の読む限りでは「官能小説」にしか思えなかった。「輝ける闇」が外向きであるとすれば、「夏の闇」は内向きであり、これらの2作は雄ネジと雌ネジのように2つで意味がある、といったことが論評には書いてあった。「官能」ではあるが、一方では、「男」と「女」の本質的な違いを描いているといえるかもしれない。結婚については、
孤独に耐えられないために結婚を選ぶのなら、フランス人のいう、オムレツをつくるためには卵を割らねばならない、という諺にあうが、それならば、オムレツをつくったあとでそれが不出来なためにいわれもなく卵をののしってさびしくなるということも同時にあるのではないだろうか。
こういったことを主人公に言わせているが、それは作者自身の経験や考えを反映しているのだろう。なんとなくではわかる気もするが、「卵」が意味するところは深そうである。


未完の作である「花終る闇」を期待して読んだのだが、2作目の筋に対する説明的な点が多く、また、官能小説っぽい展開だった。本電子版に付随の、当時の編集者の意見をみると、この作品(花終る闇)は自分(開高自身)の作品を模倣した「ダメ」な作品であると述べている。



「夏の闇」は評判も高く、英訳でも出版されている(タイトルはDarkness in summer)。そのときの翻訳家(日本人)と、開高とのやり取りの思い出話が付録でついており、英訳の際の苦労が垣間見えて興味深い。日本語で曖昧な部分の意図を聞き出したり確かめたりして訳出したようである。英訳を読んで日本語で書かれたオリジナルとどの程度違っているかを比べるのもおもしろそうだ。

2014年4月6日日曜日

「Phone Kitten: A Cozy, Romantic, and Highly Humorous Mystery」 Marika Christian

Phone Kittenとは、phone sexで働く人、すなわち、電話でエロティックな声を提供する人のことだ(もちろん商売として)。この小説の主人公Emilyは学校に通いつつ生活費をまかなうためやむを得ずPhone kittenとして収入を得ることにした(時間の自由度もあるし、在宅勤務も可能だから)。そして、その顧客のなかでお得意さまとなった人と実際にたまたま会ってしまったがその後に殺されたため、その事件に巻き込まれる話である。そして、その事件解決のために素人探偵として首を突っ込み、解決していく展開である。

面白いのは、主人公Emilyはどちらかと言えば「内気」な性格であったが、phone kittenとしての経験を積むうちに、そのキャラクターPeytonを演じることができるようになった点である。そのPeytonの性格とは、実際のEmilyとは別でセクシーで男を手玉に取るようなそして自信に満ちたものである。Peytonならどうするか?どう振舞うか?を自問して、Emilyではなく「別の人格」のPeytonとして犯人探しをする点でおもしろいミステリーとなっている。内容は、サブタイトルどおりのA Cozy, Romantic, and Highly Humorous Mysteryで、ミステリーの中にもユーモアやロマンティックさが含まれている。


話のなかで、いろいろな探偵小説の話も出てきたのですが、わたしはColumbo(刑事コロンボ)しかわかりませんでした。推理小説ファンならば、共感できるのでしょう。英語のレベルとしては比較的読みやすいと思います。

2014年3月30日日曜日

「「ご指名社員」の仕事術」 柳内啓司

これからの時代、「ご指名」される社員じゃないとやっていけないと著者は言う。その根拠は、人間の仕事が容易に機械に取って代わられることと、世界がフラット化して同じ仕事であれば最も安いものを調達化となったからだとしている(『私たちは「amazonに並べられた商品」になる』という言い方をしている)。

「ご指名」に際して専門性のほかにコミュニケーション力(以下「コミュ力」)が必要で、しかも専門性をアップする前にコミュ力を向上させようと言っており、さらに、コミュ力のなかでも「気がきく」スキルが重要だと言っている。
私が思うに、「専門性」がズバ抜けていれば、コミュ力が乏しくてもなんとかなる場合もあるだろう。  しかし、大抵の場合、ずば抜けた専門性では他人と差別化できないために、コミュ力の差で「ご指名」されるかどうかが決まるのだろう。以前紹介した本(「うっかり一生年収300万円の会社に入ってしまった君へ」)も、専門性の高い職種でも、コミュ力が重要であると指摘していた。
著者の言うように「気がきく」ことは重要だと思う。しかし、それって相当難しくないか?少なくとも、会社のなかで「気がきく」といわれるためには、その対象となる相手に対して関心をもち、よく観察することが必要であろう。「気がきく」スキルはある程度磨くことができるかもしれないが、生まれ持った才能の一部なのかもしれない。

 先輩社員とは飲みに行くことを勧めており、そのメリットとして企画がダメな理由や本音を聞くことができるとしている(一昔前ならば、わざわざ本で書かれることもなかったのでしょうが)。また、普段から他の部署にぶらりと寄って話しをする(=著者は「社内パトロール」と呼んでいる)ことが、いざというときのご指名につながると述べている。接触の頻度が高いほどその関係は親密になるのは心理学的にも証明されている(はず)なので、本書では触れてはいなかったが、おそらくゴルフをすることも会社勤めのうえでは重要なことなのであろう。つまり、仕事を離れた関係が仕事の中の関係性に影響するので、これをうまく利用していくべきであろう。


社会人経験5年以上なら、あまり新鮮でないかもしれないですが、新入社員ならば読んでおくべき内容が多いです。

2014年3月16日日曜日

カーニバルといえばGlobeleza(?)

ブラジルでカーニバル期間中はテレビ中継されていた(夜中から朝方まで)。テレビのスポットで"Globeleza"の文字とともにダンスする謎の女性が気になった。
その様子を以下に示す(テレビを直接写したので不鮮明です)。

























気になったのが、この女性は何者で、そしてほとんど素っ裸なのではないかという点である。
はじめにでてくる「Globeleza」にヒントがあると思い辞書をみたが見当たらない。ネットで検索すると、ブラジルのテレビ局の名前Globoと、ポル語のbeleza(「美しい」)の合成語であり、テレビ局のカーニバルキャンペーンガール的なものであることがわかった。(「globeleza 2014」で検索すると、TVスポットの動画もみることができます。) 
この女性の正体は、4000人の中から選ばれたNayara Justinoという25歳の女性だ。
(こちらのfacebookにも、上記と同様の画像があります。)

2つ目の疑問点である「素っ裸かどうか」だが、どこをどの程度隠していれば「裸ではない」と言えるのかの定義次第だ。ブラジルのカーニバルあるいは、ブラジルの浜辺の光景(テレビでしか知らないが)を見る限り、その線引きはかなり曖昧であろう。(日本ではこれを放映するのはダメだと思いますが。)

こうした環境が、そこで育つ人間の価値観や生き方にどういう影響を及ぼすのだろうか。日本がラテン化するのが難しい要因のひとつなのかもしれない。

2014年3月15日土曜日

スマホを翻訳機へ

「Google翻訳」はかなり便利だ。音声で入力したり、カメラで取り込んだ画像の文字を翻訳できる(らしい)。ただし、これらはオンラインでしか機能せず、スマホで常時接続じゃないと使えない、だから、海外の超地方(現在いるブラジルの北部)ではダメだと思い込んでいた。
ところが、である。
ポルトガル語の翻訳もダメだと思っていたのだが、実は、オフラインでも、あらかじめ「オフライン言語パッケージ」をダウンロードしておけば使えることを今頃気づいた(Googleオフラインを参照)。

個人的な使用上のポイントは、「日本語翻訳」にせずに、「英語」を選択することだと思っている。すなわちポルトガル語⇔英語の翻訳機能を使うことである。なぜ日本語ではないのか?翻訳機がかわいそうだから(w)。 そうではなく、明らかにヘンテコな日本語訳になることが多いからである。言語の特性からしても、日本語への翻訳は機械翻訳は難しい。なので、最初から英語を使うことを推奨したい。

スマホがいいのは、スーパーマーケットの中で商品の言葉を検索するときに、あまり違和感がない点である。たぶん店内で、辞書を開く、あるいは電子辞書を開くのは少し目立ちすぎる気がする。その点、スマホであれば、ふつうにメールをしているようにみえるはずである。

入力は「入力方法の選択」から「外国語キーボード」を選ぶとポル語でも入力可となる。

他の注意点(個人的には)としては、多少は翻訳される言語の知識をもっていたほうがベターだという点である。翻訳の精度が向上したといえども、とんでもない翻訳をする可能性もある。それが「とんでもないか否か」を気づく程度の知識がなければ、危険だからである。


Google恐るべし。しかも無料とは。
ひと昔まえならば考えられなかった技術の進歩である。

2014年3月9日日曜日

カーニバル(ブロコ編)

この前書いたカーニバルは、テレビでよく紹介されているエスコーラのカーニバルだったわけだが、街中をパレードするタイプもある。カーニバルのコンテストではなく、ブロコが町中を練り歩くといった感じだ。
ウィキの説明「サンバ(ブラジル)」を以下に引用する。
ただし、近年のカーニバルはあまりにも観光的・商業的になり、またエスコーラが麻薬や賭博など犯罪組織の温床ともなっていることなどから、エスコーラから離れたり、また距離をおくサンバのミュージシャンも多い。そのような昔のサンバを知る人は「昔のサンバはよかった」というのが口癖となっている。またそれらの人々はエスコーラなどの組織を離れて、それより比較的自由なブロコ・カルナヴァレスコ(略称:B.C.ブロコはブロック、つまり塊りの意、カルナヴァレスコはカーニバルが好きな人などと訳す)を結成したり移る人もいる。ブロコはエスコーラのようなコンテストとは無縁なのでサンボードロモではパレードせず、リオ・ブランコ通りなど街中でパレードし、比較的庶民的で地元と密着しているのが特徴的である。
滞在中の都市でもやるということなので、見物に行った。
見ていると、一応はそれぞれのブロコがあるらしく、同じ色のシャツを着ているのでわかる。しかし、ほとんどはただ歩いているだけで、さまざまな仮装が目立った。


こんな感じで群衆のパレードが延々2時間以上。
各ブロコの先頭には、大型スピーカーを山積みにしたトラックがいて、大音響で音楽を流していた。








女装集団は、いろいろ。
ほんとに女装を目指した一群もあれば、こんなふうにわかりやすい感じの一群も。







この一群は風呂上り仮装!
衣装代が安く上がるのが利点?
(左側には女性が)







ここでも、例のキャンペーンが行われており、参加者や観客にコンドームが配布されていた。ただし、それらが「正しく」使われていたかは不明である。「正しくない」使われ方はこんな風だ。


この女の子が膨らませたのかは、わかりませんが、
明らかにコンドーム風船。
右下の母親らしい人は何と言ったのでしょうか…
「正しい」使用法を教える年代はどのくらいか気になります。







日本では、カーニバルのような「ばか騒ぎ」的な全国規模のイベントがみられない。先行きの不安はあるものの、日本でもこうしたイベントができればと思う。その一方で、こうしたバカ騒ぎができないことが日本人の特性かとも感じるのであった。

2014年3月6日木曜日

「カーニバル」と「キャンペーン」

ブラジルの2-3月といえば、「カーニバル」の時期である。なぜ、「時期」といったのかといえば、それは年によって日が変わるからである。(つい、この前まで知りませんでした。2014年は3月4日ですが、2月28日ごろからイベントは始まったようです。)

カーニバルといえば「リオのカーニバル」が有名だろうが、他の都市でも規模の違いはあるが行われている。私の滞在している都市でもやっているらしく、こちらのツテがあり見に行った。(夜は物騒なのに、開始は午後10時で終了は朝5時ごろの予定ということで本来ならとても一人で行くことが出来ない。)

途中で引き揚げたものの、やはり生で見ることができたのは貴重な体験であった。

リオに比べれば小さいですが、サンボードロモを各エスコーラがちょっとづつ進んで披露します。 

ブラジルのカーニバル概要はwikiのこちらをどうぞ。

山車もあれば、人の行進もありで、ある人は「ディズニーランドのエレクトリカルパレードのようなものだ」といってました。










この時に気になったのが、ある「キャンペーン」である。
事前に購入した入場券でゲートを通過し、歩いていると、透明な90L容ほどのビニール袋から、すれ違う人に何かを渡している一団と遭遇した。何かのキャンペーンらしい。貰ったものを見てみると、3つ連なったコンドームではないか。他の一団にも会い、そこでも同様にもらったのでポケットがいっぱいに(現物の写真は下のほうを参照)。

そういえば、テレビのCMでもそれらしいものをやっていたのを思い出した。ネットで検索すると、この時期は国がキャンペーンをやっている模様。
CMが番組内で紹介されていた動画は↓

さらに、街中を歩いてみると、そのキャンペーン看板や横断幕が交差点で見受けられた。

ここは交差点のすぐ近く(車の中の二人は関係ありません)


ここの交差点にも。
そして、ここの交差点にも。

「自分で予防しましょう。コンドームを使いましょう」
と真ん中に書いてあります。
「use camisinha」が、英語では「use condom」
ですが、英語のuseはポル語ではusarで、-ar動詞で勧誘形だから-eに変化してuseなのです(たぶん)。

こちらは、キャラクターまで描かれています(ゆるキャラ?)

会場で配られていたコンドーム。








カーニバルだから「そういう」機会が増えるので、キャンペーンをしてコンドーム配布までやるということは、HIVの拡大が深刻であることを裏付けているのだろう。キャンペーンの費用も相当額であろうが、予防に費用をかけたほうが、結局は社会的な負担を低減できる。
そういえば、日本でも避妊具の使用について中学から積極的に教育しようとした動きに対して、「寝た子を起こすことになる」と反対されたニュースもあった気がする。

カーニバルで「そういう」機会が増えるのであれば、日本でもカーニバル的なイベントをすれば、人口増加の一助となるかもしれない(日本の人口減少問題がそんなに簡単に解決できるならよいのですがね)。

「文化の違い」といってしまえばそれまでだが、その「違い」がそこでのヒトの生き方にも影響を及ぼしているに違いないと感じた。

2014年3月2日日曜日

英語が使えれば、外国では何とかなるのか?

ブラジルでは、高確率で英語が通じないと感じている。サンパウロの空港国内線のチェックインカウンターでも怪しいものだ(「aisle seat」をお願いしたのだがが通じず、がっかりした)。都市部で外国人が多いところでは「英語が通じてもいいだろう」と思う。都市部がそんな感じなので、今いる地方都市ではさらに英語通じる確率が大幅に下がるのは、当然の道理だろう。

ただ、日本での状況を考えてみるとどうだろうか。東京などの都市部では英語の通じる確率は高いだろう。しかし、地方(あるいは田舎と呼んだ方がよいかも)を考えてみると、片言の英語でさえ通じる確率は、ここブラジルの地方都市と変わらないのではないか。

結局は、その地へ行けば、その地で通用する言語を使うのが「筋」であり、「英語さえも通じないのはけしからん」と思うのはむしろ大きな勘違いである気がする。

そうはいっても、世界の共通語としての「英語」の力に変わるところはない。ネイティブスピーカーのレベルになるのは無理であるにしても、意思疎通ができる程度に、英語「で」コミュニケーションをとれるだけの英語力は必須であろう(そういう自分の英語力も怪しいものだが…w)。


2014年2月24日月曜日

ポルトガル語の学習法(入門編)

ポル語のための学習書は、英語よりも少ないが、それなりに出版されている。そのなかでどれを選ぶかで悩むところだが、まずはボリュームの少ないテキストを繰り返し学習することがよいのではないかと思う。

今はキンドル版しか入手できないようだが、私の選んだのは以下の入門書(注:CDは別売)である。構成は、「スキット」、「今日のポイント」「さあ、話してみましょう」 でNHKのほかの語学のテキストでもほぼ同じような構成だったのではないかと思う。



私のとった方法は、「聴いて音読」の繰り返しである。最終的にはテキストを暗唱できるレベルまで繰り返すことを目標とした。以前に紹介したこちらの本でも、この方法は英語学習で紹介されていたように記憶している。
最低でも「聴く→音読」を10回は繰り返して何回繰り返したかをテキストにメモしておくとよいだろう。

紙ベースの辞書は日本語のものもあるが、概して高めなので、「英語-ポル語」辞書が良いと思う。私の使っているのは、Collinsのものである。


辞書の大きさだが、下の写真(左)のように、A6版のテキストと比較すると、かなり小さいことがわかる。前半が英語→ポル語、後半がポル語→英語の構成(写真の中央と右)。辞書は厚みがあるが、余り重さは気にならない。電子辞書の利用もよいと思いますが、こちらは最悪無くしても(あまり)後悔しない価格でもありローテク派におすすめ。常時ネット接続であれば、オンラインの辞書を使うのが便利だろう。


語学に限らず、何事も、学び始めは、かなりやさしそうな段階からスタートするのがポイントだと思います。

2014年2月17日月曜日

ポルトガル語が簡単そうな3つの点

「ブラジル」といえば「ポルトガル語」(以下ポル語)だが、英語よりもやっかいである。超初心者の私としてはかなりハードルが高いと感じるのだが、それでも「意外ととっつきやすいじゃん!」と思える3つを以下に挙げてみたい。

【その1】発音の苦労が少ない
 母音がはっきりしているので、ほとんどの場合、カタカナで表記できる。例えば、pode[ポジ]、posso[ポッソ]など。また、アクセントのルールもわかりやすい。

【その2】疑問形でも変化しない
 疑問形にするには文末の語尾を上げればよい。日本語でも英語でも口語では、肯定文で語尾をあげれば疑問形にはなるが、書き言葉でも疑問形がないのは不思議な気がする。文章で疑問文と肯定文を区別するためには、単に「?」を文末に書き加えるだけである。
(ポル語が母国語のヒトは、疑問形を習得するのに苦労するに違いない。)

【その3】主語がなくても大丈夫そう
 主語によって動詞が変化するのは厄介だが、あえて利点を見出すとすれば、主語を省略しても動詞の型で主語がわかる点だろう。
 英語のcanに相当するポル語の場合、
  You canであれば Você pode、
  I can であればEu posso、
 "Can I ?"  は"Eu posso?" だけど"posso?"だけで「自分が可能であるか?」を伝えることができる。また、"pode"だけで"You can"といえるようだ。
飛行機に乗った時、荷物の収納場所を探していたら、おばさんが座席上の荷物を取り出して私に向かって"pode"と言ったのだが、まさに「(あなたが、ここに荷物をいれることが)できる」ということだったのだ。主語を飛ばして使えるのは日本語でも似ていると思う。










アマゾン川沿いのちょっとした観光地にて。日本並みにきれいな車が多いです。しかし、駐車中の日よけに段ボールをフロントガラスに置くというのはどうでしょうか。車がきれいなだけにちょっと違和感があります。「エコ」と言えるかもしれませんがw

2014年2月10日月曜日

日本の裏側から-ゴミ捨て編

前回のエントリーに書いた通り、しばらくのブラジル住まいがスタートした。アパート住まいなので、自分でゴミを出すことになる。日本の超田舎の事情はわからないが、大抵日本では、分別回収にうるさい。可燃、不燃、プラスチック、紙など分類の数も多いし、地域によっては分類がさらに細かかったり、分類が微妙に違っていたりする。また、「指定ゴミ袋」を買ってその袋にいれる決まりの場所もある(以前住んでいたところがそうでした。)

こちらブラジル某北部の町ではどうかというと、予想通り、普通に捨てる家庭ごみは分類はない。また、ゴミ集積場があるわけでなくて、でかいゴミ箱があるわけでもなく、通りに面した路肩にゴミを入れる「カゴ」が設置されているシステムのようだ。地上1m程度の高さにカゴがあるわけだが、統一された規格はないようで、


こんな円筒形型もあれば、


こんな四角いタイプも。
(電柱の陰からネコが顔を出してました。)


地上から高い位置にゴミを置くのは、野犬やネズミなどの動物にやられない工夫であると推測する。カラスはいないので、空中からの攻撃を防ぐ蓋は必須ではないだろう。あとは、雨が降ってゴミが濡れたとしても水分が溜まらないのも理に適っている。ゴミ収集の際の作業員が腰をかがめる必要がないのもよさそうである。ただし、真相はわからない。

“When in Brazil, do as the Brazilians do” 少し戸惑ったが、こちら流に、ビン、カン、ペットボトル、ふつうゴミを分別せず、こちらですでに大量にたまったレジ袋をゴミ袋として、このカゴに捨てるのであった…  (ブラジルといえども、都市部のシステムは違う気がするのだが。)

2014年2月3日月曜日

日本の裏側から-戸締り編


 仕事の都合により、しばし(数か月間)のブラジル暮らしがスタートした。しかも、都会ではなく北の某地方都市(で田舎)だ。日本人は自分一人ではないので、安心ではある。しかし治安に関して気を付けなければいけないことが多い。昼間はよいが、夜間は徒歩での外出はしないように言われている。また、昼間でも立ち入らないほうがよい居住地域があるようだ。


 文化の違う場所を訪れた時の初めてのころの驚きはそのうち失われ、忘れ去られるのが常である。例えば、タイでバイク3人乗り(場合によっては小さい子を含めて4人乗り)を初めて見たときは、驚いたものだ。いまや、自分が3人乗りをする側となったかもしれない。

 そこで、記憶の消えないうちにあくまでも「主観的な」視点で自分が気になったことを書き留めておきたい(「主観的」とお断りしているのは、例えば目の見えない状態で、ゾウをさわって「ゾウがどういう動物か?」と聞かれたときに、しっぽを触ったか、耳を触ったか、足を触ったかなどによってゾウの描写が異なるがごとく、一個人の乏しい経験をもとにブラジルの正確な様相を伝えることができるわけがないと考えているからです。)


アパートに住んでいるため、今回は、気になった「戸締り編」を。

部屋までに鍵が4つある。外門、建屋入口、2階に入るまえの入口、そして部屋である。鍵が多ければよいというわけではないだろうが、コソ泥を防ぐ意味では有効であろう。

鍵を閉めるときは、鍵穴にさして2回まわす。シリンダーの出る部分が2段階なのだ。なぜ一発で施錠させてくれないのか謎(詳細は以下の写真参照)。実は、この2回まわしを知らなかったために、不完全な施錠のまま外出するところで危なかった。2回転施錠がどのくらい世界標準かを知りたいものである。
左から順に、はじめの状態、鍵一回まわし、鍵二回まわし。赤線で示した部分が一回まわしでは半分しかでていない。一応はロックされますけど…


部屋の内鍵を閉めるときには、外側を開けた同じ鍵を使って内側から閉める。
なぜ、内側からワンタッチでロックできる仕様になっていないのか謎である(ほかの国にも同じシステムがあるのかもしれないが、、、)。メリットは、鍵を持っていないと内鍵ができないので、鍵がないと部屋の中に立てこもりができないという点か?(どんな状況かと突っ込みたくなる)。




近所でネコ発見。犬は多いですが、ネコはそれほどみかけません。このネコは首輪をしていませんでしたが、野良でもなさそうでした。かなり警戒されていましたが。ネコにポルトガル語でどう呼びかけたらいいのやら。

2014年1月13日月曜日

「賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。」村上 龍

村上龍のエッセイシリーズの最新刊である(たぶん「すべての男は消耗品である。」シリーズだと思う)。
若者たちに「今幸福ですか」と問うアンケートの代わりに、「あなたが幸福だと思える暮らしには年収がいくら必要ですか」という問いにすべきだとの意見は、おもしろい。「貧しくても好きなことができれば幸せ」という若者たちに対して、「リアリティーに向き合え」といっているのではないだろうか?さらに、「幸福」を生きる基準とする人や共同体の特徴として「思考放棄」を挙げている。結局はお金がないとまともな生き方をできる可能性は低くなることと、苦しくても思考する重要性を若者たちに伝えたいのではないだろうか。
一方で、本書中では、再三、「若者たちには関心がない」と述べてはいるが、むしろ逆説的な気がする。

世代間のギャップ(著者(1952年生)からみた、若者たち、おそらく20代)に関して、潜在的な違和感というか危機的な意識を持っていることがうかがえる。従業員の解雇に踏み切らなければならなくなった小規模企業の経営者が、資金の調達に苦しんでいる状況でも自身のフェラーリを売ることなく所有している状況に対して、著者が聞いた若手は、ほぼ「しょうがない」という意見だった話を紹介している。著者は、「フェラーリを売り払って小額でも資金に充てるべきだろう」という若者がいるかと予想していたようで、私も、そんな意見を言う人間が一人くらいいたほうが自然だと思う。私は「若者たち」の世代ではないので、「しょうがない」は、世代の違いなのだろう。(なんとなく「ゆとり世代」や「さとり世代」という言葉を連想してしまう。)
また「しょうがない」感が社会全体を被っているために、いったんは表面化することなく変質し沈殿した社会的な怒りが、将来噴出することを危惧している。確かに「しょうがない」でその場をしのげるかもしれないが、それは何ら問題の抜本的な解決になっているとは言えないだろう。


テレビ番組の「カンブリア宮殿」でみてもわかるように、経済的な視点から語られていることも多く、「小説家」の随筆と位置づけるにはちょっと異色でしょうね。

2014年1月12日日曜日

「うっかり一生年収300万円の会社に入ってしまった君へ」平康 慶浩

ざっと線引きすると、サラリーマンで年収300万円のラインが生活苦となるか否かの境界だろう。そうしたエリアのサラリーマン(非正規雇用者を含む)が現状を抜け出すために書かれた本であるが、それ以外のサラリーマンのためのビジネス書としても有用である。

■給与が増えなくなった理由として以下の2点を挙げている。
①人件費がもはや固定費ではなく変動費となりコストとして管理されるようになった。
②転職が普通になった結果、市場原理により給与の相場ができ、転職市場を利用して人材の取替えができるようになった。

■300万円を抜け出すための方法として、会社の状況にあった給与の増やし方が示されている。
「普通の企業」であれば「定期昇給で増やす」、「ブラック『型』企業」であれば「昇進で増やす」、「業績悪化型」であれば「配置転換で増やす」といった具合である。また、ブラック『型』かつ業績悪化型の「二重苦企業」であれば、普通の会社への「転職」をすすめている。


■業種別、職種別に具体的にどうすればよいのかを書いている点が本書の特質すべき点である。(ここでは「専門職」についてざっとまとめる。)
専門職は入れ替え可能であり、その給与水準も転職市場の相場で決まると述べている。(もろに専門職であれば、10年後に食える仕事食えない仕事の「無国籍ジャングル」であろう。)
専門職で給与を上げるヒントは欧米系のファーム(弁護士事務所や会計事務所など)にあるとし、具体的には以下の3つを挙げている。

1.コミュニケーション能力を伸ばす
これにより「太い客」をつかめといっている。言い換えれば「営業能力」ではないだろうか。例えば顧客と仕事以外の付き合いがあるほうが仕事が取りやすいことは自明であろう。

2.希少価値を得る
さらに専門分野に特化する、あるいは語学力を生かすなど。ただ、語学に関しては「英語」が希少価値かどうかは意見の分かれるところでしょう。

3.お客様のところへ行かない
「現場」を離れてマネージャーを目指せといっている。
「マネージャーとしての資質」の定義がかなり面白い。先進的な会社と古い体質の会社の2つの場合の定義をしている。
先進的な会社での資質は一般のビジネス書でいわれるようなことであり、すなわち、引用すると、
・過去を否定せず、新たな発想を提案している
・部下に、ではなく、自分を含めたチームとしての発言をしている
・会議では常に積極的に議題を提案している
で古い体質の会社でのマネージャーの資質を引用すると
・上司の考えに対して異論をはさまない
・部下にサービス残業を命じることができる
・会議で積極的に発言しない
となっている。(毎年の評価で標準以下になっていないことが前提としているが)。
会社の体質で求められる資質が変わる点を指摘しているのは興味深い。上記の例では資質は「変わる」というよりは、もはや「正反対」ともいえる。結局、状況や環境によって求められる資質は変わりうるものであり、特に具体的になればなるほどただ一つの法則として示すのは困難であろう。

さらに人事制度の理解と上司を巻き込むことの重要性にも言及している。
サラリーマン(雇われ人)として生きることを選んだ人には大いに役立つ本である。

繰り返しとなるが「具体的」にどうしたらよいかを業種別職種別に示している点が素晴らしい1冊である。

2014年1月11日土曜日

「翻訳がつくる日本語-ヒロインは「女ことば」を話し続ける」中村桃子

日本語への翻訳の際に、女性が「女ことば」を話すのはなぜか? と問われると、なるほど不思議に感じる。本書でも多く引用されているように、映画や小説の翻訳だけでなく、新聞や雑誌のインタビュー記事にみられる日本語訳も、女性の場合には「女ことば」が使われている(「~だわ」や「~なの」など)。
また、社会的に身分の低い人物や古くは黒人の話す言葉が、翻訳された際に田舎言葉(多くの場合、「擬似」東北弁)となっているのはなぜか?に関しても考察がなされている。

本書は「気楽な読みもの」というよりは、学術的な文献を基にした「少し平易な総説」といえるだろう。したがって、やわらかい文章ではないが、各考察の裏づけは確かなものであり、論理的である。

「男ことば」については、新おとこ言葉の、縮めた「す」への考察は興味深い。例えば「こんなことしたんですか」を、「こんなことしたんすか」という言葉である。この言い方をよく使う有名人としてキムタクが挙げられている。この新語の登場について、「丁寧で敬意を表現する」と同時に「気軽で親しい男らしさ」を表現できるため、若い男性から広まっているのではないかと述べている。


翻訳にみられる「女ことば」は、日常生活ではほぼ使われていない日本語である。そこで、気になったのがタレントのマルシアの話し方である。「~でございますわ」とか、極端な女ことばを使っているのは、天然なのか、あるいは非ネイティブらしさを出すためなのか?(日系3世なので、「非ネイティブ」とも言いにくいですが。)本書では、女ことばを使う人物は高飛車な印象を与えると分析しており、マンガなどの例を挙げている。したがって、マルシアの場合にも、極端な女ことばの使用は、あえて「高飛車」なキャラとするための戦略なのかもしれない。
言葉使いが、ある意味、その言葉を使っている人間を定義すると考えると、タレントに限らず普段から話し方に注意を向ける必要があるだろう。

2014年1月5日日曜日

2013年に読んだ本-勝手にセレクション-

本来は年末に「2013年」を振り返るべきだったのだろうが、(予想通り)怠惰な年末を過ごしてしまった。遅まきながら昨年読んだ本を振り返りたい。


■小説ベスト3
夏への扉
タイムマシン系のむしろ古典的なSFですが、「ネコ」がストーリーに絡んでいるのがたまらない。逆に言えば、非ネコ好きにはあまり面白くないかも。英語の原作を読んでみたくなる。

「新版 福翁自伝」
福沢諭吉の半生をおもしろく知ることができる。お金がなければ、ないなりの生き方をすればよいのではと思える。ただし、解説にあるように、話の流れのオリジナリティーは「フランクリン自伝」のほうにあり、そちらの本も面白い。
*「小説」に分類するのに多少の違和感がありますが、一種の物語ということで入れました。

Crescent Bound
内容としては、軽いティーンエイジャー魔法もの。私のレベルでも割と読みやすい英単語や熟語が使われている。


■コミュニケーション関連ベスト3
「IT時代の実務日本語スタイルブック」
特に仕事ではメールを打つ機会が増えてきた時代には、実用的な作文能力は必須であり、実用文書を書く際に役立つ。

「パブリックスピーキング―人を動かすコミュニケーション術」
人前で話す際の「技術」を、実用的に指南してくれる本である。プレゼンの際に「シナリオ」を重視している点で、他のプレゼン技術本とは異なる。難点は通常の本よりも少し高めなことぐらいか。

「不都合な相手と話す技術」
話が通じない相手だからこそ「対話」が必要だという点を、外交問題の観点とあわせて論じているのはわかりやすい。