2014年5月3日土曜日

「ゼロ-なにもない自分に小さなイチを足していく」 堀江 貴文

ゼロに何をかけてもゼロのままである。だからゼロの状態にまず必要なのは足し算(=自分の地力を底上げする)で、それは小さなイチでかまわない。小さなイチは自分への信用すなわち自信である。「成功へのショートカット」を求めて、掛け算(=他者の力を借りる)をしようとしても「ゼロ」では何も進まない。
 以上が本書のエッセンスである。

著者の幼少時代から世間で大きく注目されるまでが振り返られている(自伝と呼んでもいいだろう。)また、働き方やお金に対する考え方が書かれているが、「お金から自由になる」などの見方は他の本(たとえば本田健)と同様である。

著者が非凡であると感じられる話は、小学校時代の家庭環境である。家庭でまともにあった唯一の蔵書である百科事典全巻を、始めの「あ」の項から最終巻までをひとつの読み物として通読したと述べている。ネットのなかった当時から網羅的な情報を求めていたと振り返っている。この話が事実だとすれば、幼少から既に凡人でなかったといえるのではないだろうか? (ビル・ゲイツにも「10歳の誕生日を迎えるまでに、家にあった百科事典を最初から最後まで読破」の逸話があるようですが、偶然の一致なのでしょうかね?) 

自分で自分の限界をつくっているのは意識の差であり、物事を「できない理由」から考えるのか、「できる理由」から考えるのかの違いだと述べている。同じことだが、「できない理由を考えずに、どうしたらできるのかを考えよ」というのを耳にしたことがある。できない理由を挙げることは簡単である。しかし、それでは限界をつくるだけである。できるための方策を考えることが重要であることは間違いない(大抵は難しいが。)

成長のためには小さな成功体験の積み重ねが必要で、成功へのステップを以下の3つに分けている。
①挑戦……リスクを選び、最初の一歩を踏み出す勇気
②努力……ゼロからイチへの地道な足し算
③成功……足し算の完了
興味深いのは、挑戦と努力をつなぐのは努力でありそれこそが重要なのだと強調している点だ。
努力のポイントとして、そのことに没頭することを挙げている。すなわち、受験勉強であっても、それを「ゲーム」のようにして没頭できれば、それは大した努力でもないと述べている。自分の経験と照らし合わせると、まったく同じことを感じた経験がある。それは、社会人になって一時テレビゲームをやるようになってからだった。あるソフトでステージをこなしていくためには、それなりにやりこむことが必要であった。で、やりこめばだんだんとうまくなっていき、達成感も味わえた。ふと思ったのが、「ゲーム」が「勉強」に置き換わってもそのプロセスが同じではないかということだった。ゲームがなかなかうまくならなければ嫌いになると同様に、勉強してもさっぱりいい点がとれなければ嫌いになる。

「チャンスがきたらそれに飛びつけ」の部分で「桃太郎」の例を挙げ、流れてきた桃に飛びついたからこそ話が始まったのであり、さらに、その時に躊躇する必要はないと述べている。実際には、「流れてきた桃」に気づくだけの感性が必要であろう。そのためには、常に頭を活性化させておく必要がある。「飛びつく」前に、気づくかどうかが、非凡かどうかの違いではないだろうか。

時間については、それはまさに命そのもので、他人の無駄話に命を削られたくないといっている。ただ、飲み会やゴルフはそれに集中する時間で時間の浪費ではないといっているのは面白い。自分の時間を生きればよいということであろうか。
その一方で睡眠時間を8時間確保し、起きている時間に集中して仕事の質を高めればよいといっている。もっと睡眠時間が短いかと思っていたので意外である。

あれほど精神的な強さを持っているように見受けえられた著者であるが、死に対する恐怖を語っている。仕事に熱中している限りは死について考える必要がないとすると、著者の努力の源泉は死の恐怖を紛らわすためなのかもしれない。

働き方を考える上で参考となる本である。

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