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2014年1月11日土曜日

「翻訳がつくる日本語-ヒロインは「女ことば」を話し続ける」中村桃子

日本語への翻訳の際に、女性が「女ことば」を話すのはなぜか? と問われると、なるほど不思議に感じる。本書でも多く引用されているように、映画や小説の翻訳だけでなく、新聞や雑誌のインタビュー記事にみられる日本語訳も、女性の場合には「女ことば」が使われている(「~だわ」や「~なの」など)。
また、社会的に身分の低い人物や古くは黒人の話す言葉が、翻訳された際に田舎言葉(多くの場合、「擬似」東北弁)となっているのはなぜか?に関しても考察がなされている。

本書は「気楽な読みもの」というよりは、学術的な文献を基にした「少し平易な総説」といえるだろう。したがって、やわらかい文章ではないが、各考察の裏づけは確かなものであり、論理的である。

「男ことば」については、新おとこ言葉の、縮めた「す」への考察は興味深い。例えば「こんなことしたんですか」を、「こんなことしたんすか」という言葉である。この言い方をよく使う有名人としてキムタクが挙げられている。この新語の登場について、「丁寧で敬意を表現する」と同時に「気軽で親しい男らしさ」を表現できるため、若い男性から広まっているのではないかと述べている。


翻訳にみられる「女ことば」は、日常生活ではほぼ使われていない日本語である。そこで、気になったのがタレントのマルシアの話し方である。「~でございますわ」とか、極端な女ことばを使っているのは、天然なのか、あるいは非ネイティブらしさを出すためなのか?(日系3世なので、「非ネイティブ」とも言いにくいですが。)本書では、女ことばを使う人物は高飛車な印象を与えると分析しており、マンガなどの例を挙げている。したがって、マルシアの場合にも、極端な女ことばの使用は、あえて「高飛車」なキャラとするための戦略なのかもしれない。
言葉使いが、ある意味、その言葉を使っている人間を定義すると考えると、タレントに限らず普段から話し方に注意を向ける必要があるだろう。

2013年8月31日土曜日

「聖痕」 筒井康隆

事件により、5歳で性器を切り取られてしまった貴夫が、幼少期からの美貌を持ったまま成長し中年期になるまでのストーリーです。1970年代から東日本大震災までの日本の状況と重ね合わせて主人公の半生が描写されています。現実の世界では、成人になって去勢するケースもあるでしょうが、この話の設定では第二次性徴を迎える前に去勢されたことになっています。
性的な欲求を知るあるいは感じることがないので貴夫は味覚が鋭くなったようなことも書かれており、そういうこともあり得るかもと感じました。目の見えない人が、視覚以外の感覚が鋭くなることと似ていると思えます。

「幼少期に性器を失ってしまったが、それをひた隠して過ごす」ことが、主人公が大学生になるまでは中心となっており、「秘密がバレるのか」とか、「異性関係や友情関係はどうなるのか」が気になりました。そこ以降は主人公の持つ「料理と味覚への関心」と彼を取り巻く状況が中心となっています。料理に造詣が深ければ、より深くストーリーにはまりこめたかもしれません(例えば、木下謙次郎の「美味求真」の話しがよく出ます)。

幼年期に性器を失ってしまった主人公の「性的欲求のない」心理的な特殊性と、周囲の人間(秘密をひた隠しにする家族、事実を知らずに心を寄せる異性や同性)との関係性が描かれているとまとめることができるでしょうか。他の筒井作品のテイストにも通ずるものがあります。

性器を切り取って持ち去った犯人はどうなったのか、そして持ち去られた性器はどうなったのか、については、最後のオチにつながっています。



この小説の特徴は、あまり見慣れない日本語や枕詞が頻繁に使われており、見開き左側に注釈で示されている点でしょう。例えば「三伏」(さんぷく:夏の暑い期間)という単語が使われていますが、この言葉を初めて見、そして意味を知りました。特に枕詞を多く使っているのは著者の実験的試みでしょう(間違っていたらスミマセン)。

いろんなことを知っていることが「教養」であるとするならば、「本の理解度は本を読む人の教養のレベルで異なってくる」と言えるかもしれません。「聖痕」の意味すら知らなかったので、キリスト教をどこまで知ってれば十分かわかりませんが、まだ自分は教養不足なのでしょう。まあ、小説を読むのに教養だ云々いうことが不粋かもしれませんけれど・・・







2013年3月16日土曜日

「「上から目線」の時代」 冷泉 彰彦

「上から目線」の分類を本書に基づいてやると以下の3つに分けられます。

1. 価値観の違いが起因する場合
「野良猫に餌を与えるのは是か非か」の例を挙げて説明してます。その価値観の対立のうえで、「どちらが上か」の論争では、「下」とみなされたほうからは「上から目線だ」と言われるのは避けられないとしています。

2. 日本語のスタイルに起因する場合
日本語の会話では「上下関係」の発生が避けられず、その感じている上下関係にずれが生じたときに「違和感」としての「上から目線」を感じるのだと述べています。
(日本人同士で英語を使っている状況から日本語にスイッチしたとき、相手との関係性が定まらないとどういう言葉遣いが適当かわからずに困った経験があります。「上か下か、対等か」を定めた上で会話を進める日本語の難しさやわずらわしさを感じた瞬間でした。)
英語の会話ではどうか? 英語では上下関係の規定が弱いので「上から目線」は問題にならないと述べています(アメリカの、「反エリート感情」と「上から目線」について例示されていますが、これは価値観対立からの上下関係による「1」に分類されるものでしょう。)

3. 日本語と価値観の違いの混合型
日本での「上から目線」の言葉がメジャーになった背景のひとつに「会話のテンプレート」が消滅したことを指摘しています。すなわち、社会の情勢が大きく変化したために価値観や生き方が多様化したために、従来の会話のテンプレート(パターン)では「上から目線」になる危険性が増しているという指摘です。例として披露宴の席での会話を挙げています。結婚して子供を作ってお幸せにという会話は以前であれば問題なかったでしょう。しかし、今では初婚でない場合もあるし、結婚後に目指すところも多様化しているので、下手をすると「大きなお世話」あるいは「上から目線」を感じさせることになるということです。


「1」のように、価値観の対立で「上から目線」を説明するのは少し無理な気がします。価値観を巡る論争でその対立がエスカレートする過程で「上から目線」の感覚があるのは通常だと思えるからです。やはり「2」のように、日本語(や文化)に特有の現象とみるのが腑に落ちます。

「上から目線」と非難されないようにするには、対等性を忘れず、場合によっては一歩下がった立場をとることを著者は薦めています。



この本の本筋ではありませんが、日本語と英語の違いを再認識させられました。
日本語と英語を比較すると、やはり日本語のほうが複雑に感じられます。話す場合はもちろんですが、仕事でメールを書くときは、言葉を選ぶのにいつも苦労しています。違う見方をすると、日本語のほうがニュアンスの違いの「幅」が英語の場合よりも広いといえるでしょう。ただし、その分だけ解釈の幅も広がってしまうので、「正確な情報のやり取り」のツールとしては日本語よりも英語のほうが優れている気はします。


2013年1月19日土曜日

「IT時代の実務日本語スタイルブック」 山本ゆうじ

ネットあるいはパソコンの時代となって文書の書き方も変わってきました。電子文書では、文書を共有あるいは再利用したり検索したりできるための工夫が必要であり、そのための表現や記号使用のための表記基準の必要性を著者は指摘しています。

文書、特に実務文書を書く上での要点も述べており、「百半ルール」「重先ルール」という具体例が示されています。
「長すぎる文章は短くする」ことは一般的な注意として知られていますが、本書では「百半ルール」と呼ばれる基準を提案しています。このルールでは「1文が百字を超えた場合、文を二つに分けましょう」という具体的な、どの程度で文を分割するかの目安が示されています。また、百字を少し超える場合に、少し減らすよりはこのルールに従って分割したほうが容易であるというメリットもあります。
「重先ルール」では、「文あるいは段落では、重要なことを先にもってくるほうがよい」と述べています。特に日本語の文では大事なことが文の最後のほうに来る可能性があるので、注意が必要だと思います。「段落」でキーセンテンスを先に持ってくるのは、こちらで触れたように英語の構成であれば当然でしょうが、日本語では見過ごしがちな点です。

著者は実務翻訳者の観点から、「わかりやすく」「実用的な」日本語文書の書き方を論じています。英語との対比に基づいている点は内容が理解しやすいです。
日本語には主語がなくても文の構成が可能である特徴がありますが、極度に英語に訳しにくい文は論理的な構成となっていないことが多いことは私も経験しています。特に論理性を求められる場合には、英語に訳しやすい日本語の構成を心掛ければ、実用文書としても通用しやすいのではないでしょうか。