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2020年8月16日日曜日

「眠れる美女」川端康成

 全3篇が収められている。「眠れる美女」は森ではなく布団で眠っている。完全に眠っている若い全裸女性に添い寝できますといえば実在する風俗サービスとも思えるが、執筆されたのは昭和35~36年である。この小説ではその添い寝の利用者が老人である。利用者は金持ち限定でかつ変なことをしてはいけないという決まりがある。本の後ろには「デカダンス文学の名作」とあり、単なるエロ小説とも読むことができるかもしれない。その一方で、主人公の江口老人が過去の女性遍歴や自分の娘たちを思い返す描写があり、心的な描写でいえば老人小説のようだ。

他の2篇は「片腕」「散りぬるを」。「片腕」は女性の片腕を一晩借りて一夜を過ごすという話である。その片腕が女性を象徴しているのはぼんやりとは理解できるものの、ちょっと難解である。

「散りぬるを」は、被害者が女性の殺人事件を、被告の心情を取り調べの資料から振り返る話である。昭和8年~9年の作品だが、「眠れる美女」「片腕」と毛色が似ているだけに同じ本に収められているのは違和感はない。

解説を読むと多少は理解の一助にはなるが、解説を書いているのは三島由紀夫であり、解説そのものが難解である感は否めない。

2020年7月29日水曜日

「定年後のお金」楠木新

 自分の過去の投稿を見直すと、この著者の本「定年後」を読んでいたことを忘れていた。著者は、サラリーマン生活に関しての著作が多く、それらは自己の経験や取材に基づいている。今回は、通常の人であれば避けては通れない「お金」の話である。

 お金の管理法として、収入・支出を追いかけるだけではなく、資産として年に2回程度の集計を行えばよく、そのやり方としては「財産増減一括表」を作成することを推奨している。要は、企業が行っているような「賃借対照表」の家計版を作るということだ。これにより正味財産があるのか、あるいは債務超過で収入が途絶えたら直ちにマズい状況に陥るのかがわかるというものである。おそらくは、ローンを抱えてる家計では、資産の現状把握の一助となるだろう(逆にいえば無借金であれば管理はさらにシンプルだろうが)。

「老後不安と投資を切り離せ」(第4章)では、お金の運用についての具体的な方法が記述されている。株式投資がよくわからないのであれば投資信託へといっているが、投信の手数料についてはあまり触れられていないのが気になった。投信の場合、その種類によっては運用手数料が数%であり、運用益が十分でなければ保有しているだけで目減りが避けられない。したがって、投信にしても手数料の安いところでないと株と同様にリスクがあることを認識しておく必要があるだろう。

 お金がないと困るが、あくまでもそれが目的ではなく、手段であることは、お金の議論では必ず出てくる点である。先行きのことを考えると不安にはなるが、できる限りの準備を進めて「その時はその時」の開き直りも必要なのではないかと思う。日本では、最後の手段は、セーフティーネットとして生活保護があると思うしかないと言ってたのは「ちきりん」さんだったような記憶がある。
今日がなければ明日はないの精神で目の前のことに集中するのが吉でしょうか。

2020年7月24日金曜日

「簡易生活のすすめ」-山下泰平

ミニマリズムのブームからそれなりに時間が経過した。要は「シンプルに生きる」ことを目指している様式で、モノを減らすことが注目されがちだが、広くは人間関係などのソフト面を含むといえる。

この本では副題の通り、「明治にストレスフリーな最高の生き方があった!」と、日本では明治時代からミニマリズムに通じる生活様式(=簡易生活)を実践しようとする動きがあったことを、当時の文献、新聞記事をもとに紹介している。

当時の文献のうち、徳富蘇峰の「簡易生活」については、以下の3点に要約されるとしている(p.42)、
・実用がすべて
・簡易で簡素
・余計は排除

当時の実践者の事例で、広い家に住んでいたが簡易ではないと考え、狭い家に引っ越したが、やっぱり広い家に住みなおしたことが記述されている。
ここでの行動を
・思い立ったらすぐ実行
・失敗を恐れない
・間違えたら改める
とまとめている(p.68)。
これらの要点は、明治の始める方法・失敗する方法のまとめ(p.56)でも同様である。すなわち、
・始めさえすればよい
・失敗してもとらわれない
・改善すればいい
の3つである。

始めても失敗したと思ったらすぐに改める点が特徴的だ。別の選択肢としては、失敗しないように「よく考えて」、それから「実行」があるが、これではよく考える時間が余計なために簡易ではないということなのだろう。

当時の事情として、食事の用意する時間を減らす方法(電子レンジはもちろん、コンビニもない時代なので)とか、さらには、モノを食べないことが究極だとして、どれだけ食べずに生きていけるかをやってみた記事の紹介があり、なかなか笑わせてくれる。まさに、思い立ったらすぐ実行し、だめでも構わず、改善すればいいという思想である。

文明の発達により、当時は夢のような話が今は現実となっているので、今となっては問題とならない点も多い。一方で、「自分も他人も道具であり、とにかくうまく道具を使え」という「平民主義」の思想は、現在も適用できる考え方である。

2020年2月2日日曜日

「定年後」 楠木新

「定年後」に関して、著者の調査やインタビューの経験も踏まえてはいるものの、現時点での著者の立ち位置から「定年後」を見ている内容だ。

会社勤めであれば、ほとんどの人にとっていつかは終わりがくるわけで(定年廃止の選択も企業にはあるがおそらくは少数派)、定年後の過ごし方はひとつのテーマとなりうる。ただし、その過ごし方は、現在、自分がどの世代にあるかによって大きく左右されることは間違いない。本書で取り上げられているように、定年後に、属性を失い、それが本人および家族の問題となるのは、年金などでの生活保障がある世代である。すなわち、無理やり働かなくとも、生きていくには何とかなる人たちである。生きていくうえで心配のいらない世代であれば、単に「生きがい」をみつけることや、社会とのつながりをもつことがとりあげられればよいと思う。そのために、会社だけの繋がりをもつだけではなく、会社への属性を失ったあとを考えて、定年前から地域や何らかのコミュニティーへの繋がりを考えておく(助走をつけておく)ことは大切であろう(ほかの本でも同様のことは言われているが)。

「会社は天国?」の項では、会社勤めのメリット(いろんなことをタダで教えてもらえるし、会社の経費で飲めるなど)を挙げているが、これらは会社員と、自営とを経験しないとわからない点であり、会社勤めを辞めるまえに考えておいたほうが良い点かもしれない。

第7章の「死から逆算してみる」で、「自らの人生を創造的なものにするには、やはり人生の締め切り、最期のことを勘案しておく必要がある」(p198)点は、折に触れ必要なことであろう。中年期以降であれば「死から逆算」に現実味があるが、若ければ自身の最期をイメージするのは難しいと思われる。
「終活よりも予行演習」の項で、死んだ後の葬式をどう演出するかの著者の希望が書かれている。この点については、正解はないと思うし、それが自然である。なぜならば、死生観は人によって違うからである。個人的には「終活」に使う時間が果たして有効なのかに疑問をもっている。その一方で、「人生とは壮大な暇つぶし」という人もいるので、時間を消費する方法としては有用であるかもしれない。

「定年」に関してはさまざまな著述があり、それらが参考文献として本書巻末にまとめられているので、2017年2月ごろまでの定年本レビューとしても活用できる。


2019年9月16日月曜日

「ライフシフト」リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット

副題は「100年時代の人生戦略」とある。翻訳本で、原題は"The 100-Year Life  Living and working in an Age of Longevity"。

現在何歳なのかによって読む人の受け取り方が変わると思われる。現在の長寿化社会でいかに人生設計するかの問題を取り扱っている内容である。今の時点で年金生活者であれば、あまり内容に興味がわかないかもしれないが、これからの世代であれば興味をもって読める内容だ。
これまでの社会制度は人生を3つのステージ、すなわち教育の時期、働く時期、引退の3つを前提にしていたが、これからは平均寿命も100歳に迫る時代になるので旧来の制度設計や個々人の人生設計を見直す必要性があるというのが本書の概要であろうか。日本国内の状況をみても年金受給時期の繰り下げや定年の延長にその徴候が現れてはいるが、これらはむしろ国の財政上の都合といえる。3段階のステージからマルチステージに対応したやり方(例えば再教育など)を個人でも考えなければいけないのだ。

生まれた年代によるシナリオで、引退前にどれだけの貯蓄が必要の試算もあり、日本の例ではないにしろ参考になるだろう(現役の間にそこそこの割合で貯蓄しないと厳しいということなのだが)。

長生きすることに対して漠然とした不安があるのなら、それに対する答えが本書の中でみつかるかもです。

2019年1月3日木曜日

「自分らしく働くパラレルキャリアのつくり方」三原菜央

勇気、助走、戻れる場所の3つを大切な点として挙げているが、お金に不自由していない人を除いて、「戻れる場所」がもっとも大切であると考える。パラレルキャリアであるにせよ、新しいキャリアであることには変わりなく、そこに100%乗っかっていくには危険が大きい。リスクヘッジの上でも戻れる場所が必要で、だからこそ、失敗に対して寛容になれるといえるだろう。ここでは副業ではなく複業といってはいるが、戻れる場所を考えるとはじめは副業から開始するのがいいのではないだろうか。

「学習性無力感」の説明にカマス理論を使っているが、他の1匹をいれると無力感が解消される点を除いて、ノミ(ダニだったか?)のジャンプが制約される例と同じだなと思った。無力さを学習する事例は他の動物実験でもよく引用されている。何度やってもダメであれば、ダメな要因が排除されたあとも「ダメだろう」と思い込み無力になるヒトでも同じである。

たいていの場合、個人で起業ということになるが、個人だから強みを発揮できる点がフットワークの軽い点だと言う点は同意できる。組織が大きくなるに従い意思決定の過程が煩雑になり、動きが遅くなるものだ。

やりたいことが見えない場合には「セカンド・クリエイター」からはじめよう=お手伝いから始める方法、は、弟子入りと似ているが、著者は「セカンド・クリエイター」と命名している。その道のプロにくっついて教えをこうあるいはその技を盗むというのは今に始まったことではないが、ネットの時代では弟子入りもそれほど難しくはない。本書で紹介されている副業・複業支援サービスから可能であろう。
副業・複業支援サービス
ココナラ
ビザスク
SCOUTER
ストリートアカデミー
Teamlancer
yenta
「雨降り族はなぜ必ず雨を降らせることができるのか?」雨が降るまで踊っているからというオチ(!)であるが、継続の重要性のたとえとしてはおもしろい。つづけることが大事なのはわかるが、それが難しいこともあるだろう。だからこそ、続けることが苦にならないことを複業として選ぶべきであるといえる。

2018年12月24日月曜日

「老いと孤独の作法」山折哲雄

これまでの随筆をひとつの本にまとめた形態なので、必然的にひとまとめに内容を語るのは難しい。しかも、内容としてもそれほど簡単とは言えず、おそらくはこれまでの著者の本をすでに読んでいるか、あるいは、宗教や歴史に造詣が深い人でなければ内容の理解が消化不良となるであろう。

貧乏暮らしの3つの心構えが紹介されている。それは、出前の精神、手作りの精神、身銭を切ることである(p.50)。はじめの2つは、自分で出ていって仕事をすること、足りないものは自分で作る・修理することで、これらの精神はわかる。ただ、3つめに、貧乏といえども「身銭を切る」ことを挙げている点は興味深い。これは、公助や共助に先んじて自助、自立があるべきだとの考え方に立脚しており、(公助とは言えないかもしれないが)会社の経費を必要以上に当てにしていてもそこからは何も生まれないという。ビジネスの世界で飲み会に誘うならば経費を当てにせず身銭を切るべきだとの主張をどこかで読んだ気がする。「自腹で」という点に何らかの普遍的な理由が存在するかもしれないが、「身銭を切る」ことでその機会が厳選される効果があるのかもしれない。

天皇退位に関する部分では、生前退位の形態と「王殺し」による代替わりについての考察をしており、平成が終わるこの時期に、天皇の退位について考える上で参考になるだろう。これと関係して「定年」の由来についても言及している。

「老い」の先には死があるのは必然であり、死に向きあうことについては、BC級戦犯たちによって巣鴨の父と敬愛された仏教の教誨師(きょうかいし)田嶋隆純の活動について述べている。恥ずかしながらこの話を全く知らずに今日まで生きてきた。戦後の日本の歴史は現在どの程度学校で詳細に教えられているのか知らないが、戦争裁判の是非も含めてきちんと教育されるべきであろう(学校教育にだけ依存していけないのは言うまでもないが)。東京駅前に再び設置された「愛の像」にそのうち立ち寄ってみたいものである。


2018年11月5日月曜日

「10年後の仕事図鑑」堀江 貴文, 落合 陽一

「仕事図鑑」とはいっても、図鑑的な部分はかなり限定的で、仕事や未来やお金に対する著者らの考え方が記述されている内容だ。技術の発展速度を考えると、これまでの10年間とこれからの10年間で、同じ速度で世界が変わるとは予想しがたい。そもそも未来はわからないものだから、そこを論じても仕方ないとホリエモンがいっているのは至極当然であろう。
無くなる仕事、生まれる仕事、伸びる仕事といえば、こちらでネット記事を紹介した。

これからの労働に対しては「誰もが遊びでお金を稼げるようになる」といって、ユーチューバーの例を挙げている。確かに、こんな仕事は10年前には想像もできなかった「新しい職業」である。遊びと仕事のシームレス化あるいは遊びの延長に仕事がある、または仕事に没頭できるのは遊びから始まったからという指摘は理解できる。しかし、それはやはり「理想」の域を出ないのでは?というのが個人的な考えである。そんな理想型は現実的には一握りの才能に恵まれた人だけがたどり着ける境地なのではないか。事実、頑張って芸人を目指してもそれだけで生計を立てることができるのは少数派である。プロスポーツの世界はそれがはっきりとわかる。
遊んでいても生きていけるためには、「ベーシックインカム」を導入すればよいのは同意できる点だ(小さい政府が可能となるにせよ、日本人に馴染むのかは微妙だが。)

以前に「10年後に食える仕事食えない仕事」という本を紹介しているが、こちらでもオンリーワンが重要なことをいっている(もう5年前のことだ。)しかし、凡人ではボルトのような足の早いオンリーワンな人間にはなれない。つまり、一つのことだけでは100万分の1の希少な人間には我々ではなることが不可能だ。その解決法として、100人に1人くらいの希少性を持ち、それを複数持てば掛け算で100万分の1を実現できるといっている。それでオンリーワンを実現できるが、やはり凡人にはそれでもハードルが高いと思えてしまうのだ。

学生が「何をしたらよいかわからない」の問に、落合氏は「まずは夕食から決めよう」と返答するらしい(p.237)。まあ、小さいことから決めていくことは理にかなっていることであるが、ずいぶん学生もバカにされたものだなあと思う。個人的には、何をしたらよいかわからないのはある程度健全な姿である気がするのだが。昔と学生気質も変わったのだろうか。

2018年7月16日月曜日

「半年だけ働く。」村上アシシ

表紙にも書いてある通り、労働時間を半減にするキモは「単価を2倍にする」点にある。著者自身はそのライフスタイルで10年以上生きてきたわけだが、現在、長い休みをとるのが難しいサラリーマンすべてに可能な方法が書かれているわけではない。もっとも適しているのがITコンサルで、フリーランスとしての生き方に親和性が高い業種である。従って、現在サラリーマンで、その業務内容がフリーランスとして通用するのでなければ、「半年だけ働く」スタイルに移行するのは難しいであろう。

「まずはサラリーマンで地頭をつける」の項で、「1万時間の法則」が書かれている。これは物事を習熟するのに要する時間で、「石の上にも3年」を裏付けるものらしい。学校をでていきなりフリーランスを目指すよりかは、まずはサラリーマンで修行するのが得策であろう。事実、会社勤めは、長く休めないなどの制約があるが、種々の教育を受けられる(しかもお金をもらいながら)ことや、社会的な身分を保証してくれるメリットもある。会社にいるか、フリーランスになるかの長所短所は本書の別のところでも紹介されている。

タイトルの「半年だけ働く」の目的は何かといえば、著者の「旅とサッカー観戦」の時間(と資金)を捻出するためである。ここで興味深く感じたのは、フリーランスで、かつ旅をすることから、その生活が「ミニマルに生きる」こととつながっている点である(第4章)。捨てるものとして、名誉欲、人間関係、紙の本、手帳があげられており、ハード面の保管や記録に関してはGoogleの利用を推している(私もGoogle派)。
「やめる」ことで「年賀状」がでていたが、これをやめようといっている人は他にもいた(多分「お金じゃ買えない」に書かれていた)。個人的には年賀状をやめることには賛成だが、やめ方はきちんとしたほうがよいと思う。返事をしなければそのままフェードアウトするだろうが、やはり意思表示をしたい。つまり、年賀状書き最後の年には、きちんと「今後の年賀状はやめます」の旨、一筆添えるべきであろう。

「半年だけ働く」ライフスタイルのためには、それなりの実力(=会社をやめても生きていける力)が必要であることは否定できない。では実力のないヒトはとうすればよいのか?実力をつけるか、難しそうであれば、支出を減らして可処分所得を増やす生き方もありだろう。「時間を生み出す」ために他の時間を減らす(あるいは切り捨てる)考え方は後者に近いといえる。

2018年5月6日日曜日

「一流の人は上手にパクる」俣野 成敏

 ビジネスセンスに富む提案ができるための事前のネタ仕込み、それが人真似によるということらしい。それを「大人のカンニング」と呼んでいる。
要点は、①情報収集力、②情報変換力、③情報応用力、が必要ということで、①では、ちょっとした感情の動きに着目することが収集力に磨きがかかるといっている。具体例の中で、「タウリン1000mg」を挙げている。単位をgではなくmgとしていることで含有量を多く見せている(当然ながら1000mg=1g)。
「なんでだろう?」という見方が大切であり、著者はウォールマートのグリーターを挙げている。これは、入り口にいる挨拶係なのだが、万引きの監視員を兼ねており、目立たないように配置するためらしい。ここを読んで思い出したのが近所のショッピングモールのなかにある本屋の「椅子」である。そこでは店の奥の方の本棚の脇に椅子が配列されており、客はそこに座って本を読める(立ち読みならぬ座り読みだ)。これは客に対するサービスというよりは、万引き防止に客を利用しているのではと思える。
グリーターの例とは反対に、近所のスーパーでは制服巡回員が配置されており、この場合は、あえて目立たせることにより、万引きの抑止効果を狙っているのだろう。まじめな客としては、あまり良い印象を受けないが、そこまで万引きの被害が大きいということか?

好奇心が乏しくても好奇心をもつ機会を増やすために、「好奇心をルール化する」という提案はおもしろい。著者は具体的には「街頭で配られているものは拒否しない」ルールを作っている。興味のない対象に対してもオープンであれということだろう。他の本では「あえて読むことのない婦人向け雑誌を読もう」というのがあった(女性では男性誌か?)。なお、尊敬していた昔の上司のルールは「小さいことでも毎週一つは新しいことをする」で、行ったことのないレストランに行くとかを実践していたようだ。これも見習えることだろう。

②「情報変換力」については、その下ごしらえの方法の一つとして「勝手にコンサル」を勧めている。具体的には、何らかのサービスに不満や疑問があれば、「自分だったらこうする(させる)のに」という考える習慣を身につけることだ。

③「情報応用力」では、掛ける、引く、割り切るで新しいアイデアが生まれるといい、QBハウスやブックオフの例を挙げている。応用としての足したり引いたり掛けたりの手法は、見渡してみるとそれほど目新しくもなく、特許明細書を書く場合にも新規性や進歩性を出すために既知技術✕既知技術で考えたりする。

各章にまとめがあるのでそれを参照いただきたい。自分なりに要約すると、「常にアンテナを張って、好き嫌いに関係なく情報をストックし、そのストックからいろんな組み合わせで新しいことを生み出せる」「引っかかった情報に対しては、なぜそうなのかを問う」ということだろう。

2018年5月5日土曜日

「うらおもて人生録」色川武大

 著者である色川武大は、別名である阿佐田哲也(=「麻雀放浪記」の作者)が有名であるかもしれない。著者はかつては博打で生計を立てていたプロである。
麻雀は少しかじった程度しか自分はわからないが、その初心者のころに友人が教えてくれたのが、この本で書いてあることだと記憶している。そのこととは、麻雀は最終的には点棒のやり取りで点数で勝敗が決まるが、その局面での点棒のやり取りだけではなく、そこで「運」のやり取りがあるということだ。
マージャンは点棒のやりとりのように見えるけれども、実は運気のうばいあいなんだね。ところが運気は眼に見えないから、点棒の状態でお互いの様子を判断することになる。それでは不正確なんだけどね。(p.296)
あとは、運不運に関しては、長い目で見ればプラスマイナスゼロになるという。上にいったり下にいったりすることはあるにせよ最後には「原点」に戻ると。最後とは最期、その人の人生が終わるときである。

 人生は長いマラソンのようなものであり、また、その長丁場で勝ち続けることは所詮無理であるといっている。その例えは相撲でいうと15勝ゼロ敗を一場所ならできるかもしれないが、それを続けていくことには無理があると。9勝6敗くらいを目指し維持するのが肝要であるという。「負け時」を考慮すべきだということは興味深い点で以下のように言っている。
なにもかもうまくいくわけじゃないんだから、なにもかもうまくいかせようとするのは、技術的にはまちがった考え方だ。
少年よ、大志を抱け、という言葉があるね。あれは気力の問題。もちろん気力は大切だよ。
そのうえで、技術としては、どこで勝ち、どこで負けるか、だ。(p.104)
他にはフォームの大切さを野球を例にして説明しているのがわかりやすい。なぜスランプに陥るのか、あるいは調子を崩すのか?その原因はフォームが崩れることにあるのだと。王選手に対して王シフトを考案した広島の監督も、打撃フォームを崩すことを目的としていたらしいことも記されている(王貞治の現在の認知度に不安がありますが…)。
フォームがあれば勝ち越しできる、勝ち負けのバランスで6分4分の割合で勝つことが重要であるといい、生きる上でのフォームとは以下のように言っている。
思いこみやいいかげんな概念を捨ててしまってね、あとに残った、どうしてもこれだけは捨てられないぞ、と思う大切なこと。これだけ守っていればなんとか生きていかれる原理原則、それがフォームなんだな。(p.115)
勝負の世界から、人生に対してフォームを定義しようとするとわかりにくい感は否めない。あとは本書から読み解いていただくしかない。

本書でいえるのは、他人に勝るとしても「大勝」ではなく「ほんのちょっとだけ」抜きん出ることが長丁場では大切で、相手の立場を尊重(今風に言えばリスペクトか?)することも不可欠だということだろう。

昭和の終わりの時期に出版されたとはいえ、生き方の指針を模索するうえでは平成の終わりに読んでも示唆に富む著作である。

2018年5月4日金曜日

「1億円貯まったので、会社を辞めました。」坂口一真

本のタイトルが刺激的であるので、手に取ってみた。が、想像よりも残念な内容だと言わざるを得ない。サラリーマンがそこそこの歳(50を超えてから)やめる時点で1億円貯まっていて、それがなぜ貯めることができたのか、を教えてくれる内容である。全71節の小見出しがすべて「~だから貯められた」なのだが、かなりの部分でこじつけ感が否めない。つまり、「お金がたまったこと」と、著者が記述した「やったこと」がリンクしているか疑問なものが多いのだ。

個人的にツッコミを入れたくなったものを以下に挙げる:
スポーツジムでトレーニングしなかったから貯められた(p.126)
有料会員の小洒落たスポーツジムよりも、公共のスポーツセンターを活用したほうが「貯まる」というのだが、あまりにも自明すぎないか?それであれば、民間、公共に限らず、ジム通いに替わるものを選んだほうがいいんじゃないかと思うのだ。私であれば「本を買わないから貯められた」をいれて、図書館利用を勧めるのだが…

かみさんのあとを歩いていたから貯められた(p.198)
ここで、「節電」についての実践が記されている。便座ヒーターのスイッチングを年に2回だけとあるが、特に自宅用途であれば、便座ヒーターなしでもなんとか凌げるのではと思うのだが。特に最近は良い便座カバーもあるし、こだわるならばそこまでして欲しいと感じた。

危機はあせらず乗り越えたので貯められた(p.228)
保有株の暴落局面で株を買い増しし、その後出資額程度にまで回復した経験から、
”危機はあせらず乗り越えれば、素人でも何とか「貯まる」のです。”といっている。ただし、厳密に言えば、「乗り越えられれば」で、ここでは著者のケースでは結果OKであった事実を述べただけである。素人がナンピン買いをすることで危機を乗り越えるなんて、あまり一般的でないと思うのだが。


それでも役立ちそうなもとは以下:

愚痴の会?に気がついて貯められた(p.23)
勤め先での、愚痴のための飲み会に参加することの無駄さ(経済的のみならず時間的にも)を説いている。愚痴ることは度が過ぎるとマイナスのパワーを発揮するので、私も同意見である。勤め先の不満が大きいなら会社を辞めるべきだし、それができないのであれば、そんな愚痴しかでない駄目会社に勤めている本人はさらにダメ人間であることを自認していることにほかならない。

服は流行を追わず、スーツは安物を買わなかったから貯められた(p.173)
流行に流されない、長く着れるスーツが長期的には得であるということだが、特にビジネスマンには目新しいかもしれない。

医療保険は元が取れないと思ったから貯められた(p.212)
保険の意義や経済性については、他の本でも触れられている。一番覚えておかないといけないのは「高額療養費制度」で、この制度を利用すれば一定額以上の支払いは必要ない。

一つの経験談、つまり、サラリーマンが早期退職して貯蓄できたのはこうした理由だと本人の言葉から知るには使える本かもしれない。ただし、過去30年と今後30年が同じであるはずもなく、参考程度の情報として受け取るべきであろう。

2018年5月3日木曜日

「必要十分生活」たっく

 ミニマリズム本である。したがって、「いらないもの」(と著者が考えるもの)が列挙されている。
使用頻度が低いものは「いらないもの」の候補であるので、「プリンターはいらない」といっている。写真屋のサービスもあるし、トータルの維持費を考えるとコンビニのコピーやプリントサービスの利用は妥当だろう。コストを除くと「不便さ」をどこまでじゅようできるか次第だろう。
シャンプーやコンディショナーは家族内で統一するのはなんとかなりそうだが、ひげそりジェルもコンディショナーで代用化で、さらに電気シェーバーはも不要と言う意見は普遍的ではない。やっぱり髭が濃ければ電気シェーバーは欠かせないのだ(それは自分のことであるが)。視点をかえて、「ひげ伸び放題でもいいじゃないか」もありかもしれませんが。

持ち物の数量を減らすという点では「靴は3足」といっており、2足の靴を交互に履いて長持ちさせる方法には反対だといっている。その理由のひとつに「飽きがくるから」という。が、そもそもの必要十分生活の基本思想は「飽きてもかまわない」ところにあるのではないか? 1足だと2年でだめになる靴が2足を交互にはけば5年使えるとすれば1足あたり半年寿命が延びるわけだが、それならば2年で履き潰したほうがよいという考えもできるだろう。靴に関しては、その人のこだわりがあるので、こだわる人であればもうちょい保有数が多くてもよいかなあとも思う。(章のひとつで「趣味のものは思う存分家に置く」とあるので、靴が趣味だと無理そうですけど。)

最終的には、トランクひとつにモノが収まる程度を目指し、あえて所有せずにレンタルできるものはレンタルを利用するあたりが、単なる節約生活とは一線を画する点だろう。シンプルな生き方に憧れはあるが、そのためには、それなりにお金が必要なのだ。

こだわりの点を除いてモノが減るということは、いかに「飽き」をやり過ごすかということだろう。こだわりが増えすぎるとモノを減らせなくなるとすれば、必要十分生活はその人の生き方に依存するといえるのではないか?

2018年5月2日水曜日

「夜のピクニック」恩田陸

「夜のピクニック」のタイトルからおおよその内容は連想される。高校生活最後の夜の歩行祭、つまり一晩中長距離を歩くというイベントで、主人公の貴子が融(わたる)に「何か」を告白しよう というストーリーである。ただし、ポイントは一般に想起される単なる恋愛の告白ものではなく、意外な二人(貴子と融)の関係性とそれに加えて彼らの友人との関係描写されている点だ。青春小説といえばそれまでだが、話としてはかなりうまく構成されていると感じた。この小説が単純な告白ものであれば全くの平凡な小説のひとつなわけで、この構成の巧みさがこの小説を名作と言わしめている所以であろう。

■p.23からの引用:
 日常生活は、意外に細々としたスケジュールに区切られていて、雑念が入らないようになっている。チャイムが鳴り、移動する。バスに乗り、降りる。歯を磨く。食事をする。どれも慣れてしまえば、深く考えることなく反射的にできる。
むしろ、長時間連続して思考し続ける機会を、意識的に排除するようになっているのだろう。そうでないと、己の生活に疑問を感じてしまうし、いったん疑問を感じたら人は前に進めない。だから、時間を細切れにして、さまざまな儀式を詰め込んでおくのだ。そうすれば、常に意識は小刻みに切り替えられて、無駄な思考の入り込む隙間がなくなる。
この部分は、この歩行祭が「長時間連続して思考する機会」を与えてくれていること、そして日常生活では、われわれはあえて忙しくして生活の疑問に向き合う機会を放棄しているとの作者の見解を示すものであろう。これは高校生に限ったことではなく、毎日の生活に追われている大人には特にに当てはまるだろう(「大学生」は違うんじゃないかと思うのだが、昨今の状況を知らない)。


■小さい頃読んだ本の「タイミング」について歩行祭の最中に、融と忍(=融の友人)が二人が話をしてる時の流れで忍が言ったこと(p.189からの引用):
「お前が早いところ立派な大人になって、1日も早くお袋さんに楽させたい、ひとり立ちしたいっていうのはよーくわかるよ。あえて雑音をシャットアウトして、さっさと階段を上がりきりたい気持ちは痛いほど分かるけどさ。もちろん、お前のそういうところ、俺は尊敬している。だけどさ、雑音だって、お前を作ってるんだよ。雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。お前にはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。おまえ、いつか絶対、あの時聞いておけばよかったって後悔する日が来ると思う。 」
今の時代に「テープを巻き戻す」との感覚がわかってもらえるかは多少の疑問が残るが(私はカセットテープの時代を知っているので、巻き戻しやノイズの感覚は非常によくわかりますが)、「ノイズ」の重要性をうまく表現している。いろんなことを「無駄でないもの」と「無駄なもの」で分けようとすることは危険性を孕んでいると言えるだろう。
また、ここでのポイントは、人生において「タイミング」が重要であるということだ。例えば、ある本を読むにしても、それを10代で読むのか、あるいは40代で読むのかで、受け止められ方が違うことはある。若ければ「未知」のこととして捉えられることが、歳を重ねた後で読めば「過去」の自分の経験と照らし合わされて読まれる。

■本書から、何らかの教訓めいたものを読み取ることもできるが、単純にストーリーを楽しんだほうがよいでしょうね。

2018年5月1日火曜日

「ねこはい」 と 「ねこはいに」 南 伸坊

 はじめに「ねこはいに」の表紙を見かけたとき、「ねこ」は「猫」だろうと認識できたが、それにつづく「はいに」の意味するとこが掴めなかった。本の中身を見て、「ねこはいに」は「猫俳句その2」だとわかった。(したがって「ねこはい」は「猫俳句(その1)」なのだろうが。)

「ねこはい」のほうでは、
ひにすける
ひにかげるはや
なつこだち

のように俳句ぽいのもある(日に透ける、日に陰る早、夏木立)が、その一方で、

はととった
こともあったな
いまはむり

のように、カレンダーにもなっている「猫川柳」を思い出させるものもある(伸坊さんも別に「俳句」ではないと思っているのでしょうけど)。

「ねこはいに」もこんな調子で、脱力系書籍(絵本)の範疇に入るだろう。猫絵本コレクター必須(?)かもしれない。

2018年2月12日月曜日

「働き方の問題地図~「で、どこから変える?」旧態依然の職場の常識」沢渡あまね+奥山睦

日本の職場(ホワイトカラーの場合)の問題点とその解決策について著した本である。

■1丁目(第1章のこと)の「グローバル化できない職場」では、
”海外の企業では、人を雇うイコールその人の専門性を買う。それに対し、日本はその人の時間を買う発想が強い”(p39)
との通りであり、なんでもやってくださいとなるが故に、時間内でも帰られなくなるというのは当然の帰結であろう。この点は職務主義か職能主義かの違いを反映している点であり、現在の国内の雇用形態ではいたし方ない。
 その解決法として「サービスカタログを作ってみる」との提案がなされている。これは一定の効果があるだろう。「サービスカタログ」とは、部署の業務=サービスを一覧化したリストのことである(p46)。

■シンプルコミュニケーション力で示されている3つの法則は実用性が高い(p52)。
それらの法則とは:
①CCFの法則(Conclusion Comes First):結論を先に言う

②NLCの法則(Numbering,Labeling,Claiming)
・論点がいくつあるかを数値で示す
・各論点にタイトル(ラベル)を付ける
・各論点の詳細を説明する

③AREAの法則(Assertion,Reasoning,Evidence/Example/Experience,Assertion)
:主張→理由→証拠→主張の順番で展開する

CCFは特に偉い人に対して話すときには重要だ。言いたいことを頭に持ってきて時間を短くすることが可能だからだ。

NLCについては言うまでもなくプレゼンの基本であり、パワポで資料を作った経験があればすでに知っていることであろう。また、会議を開催する際に準備するアジェンダも同じ法則にのっとってつくるのが通常である(まともな会議であれば)。

AREAはディベートの経験があれば身に付いているかもしれないが、欧米と比べると日本人が負けているスキルであるかもしれない。AREAは言い方をかえれば論理的な話し方とも表現できるであろう。

■管理職のタイムマネジメントを見直すための方法として、ウィークデーの時間記録をつけることを奨めている(p188)。職場でやったことを15分単位で記録して、自分でやる仕事なのか、それとも誰かに振れる仕事なのかの見直しに使えるという。自分の仕事をそつなくこなすのは重要であるが、時間の制約もあるので、いかに仕事を割り振るかという能力は、特に「働き方改革」が言われる昨今では重要だ(自分でやった方が早くデキルことはままあるが)。

■本書ではそのほかにテレワークの可能性が特に女性活用の観点から強調されている。が、「時間が短くてもやることやっていれば評価が高い」のは、そのまま「成果主義」であり、すべてのヒトが恩恵を受けるとは思えない。その大前提は「すべてのヒトができるヒト」であり、必然的にできないヒトをカットする仕組みとセットでなければ拡大は難しい。会社の業績を上げることは重要であるが、同時に従業員は自分の生活があり「すべてがハッピー」になるのは難しい。


2018年2月4日日曜日

「雨月物語」 上田秋成(佐藤至子編)

古典といえば、とっつきにくいものである。そこで、読みやすくした形式として提供されているのが本書である。序文の解説に書かれているように、「美しくも怖ろしい物語たち」との表現が、この本の内容を端的に表現しているといえるだろう。

本書の構成として、現代語文、原文、解説が、適当な区切りで配列されている点が非常に読みやすい。「日本古典文学全集」では、ページ内で、上の方に解説や注、真ん中に原文、そして下1/3の部分に現代語訳と配置されているが、これは気楽に読むにはちょっと辛いレイアウトであると感じる。

内容は9つの短編からなっており、それぞれを読むのはそれほど時間を要しない。話の落ちの怖さでいうと、「吉備津の釜」が一番であろう。主人公は妻の怨霊を避けて42日間籠っていたが、最後の日の夜明けを誤って家からでたために、怨霊に命を奪われる。しかし死体が残されていたわけではなく、ただ血のあとと、主人公の男の髷だけが軒下に引っ掛かっていたという。

お化け物あるいは怪奇小説の類であるが、解説によれば、中国の古い話が下地になっているものもあるらしい。


「ビギナーズ・クラシックス日本の古典」のシリーズのなかの1冊で、2017年末に刊行されている。解説もわかりやすく、元の雨月物語に興味を掻き立てられる。本書の本文の随所に挿入されている解説やコラムは佐藤氏の雨月物語に対する見方をうかがい知れるもので、物語の面白さに加えて読み物として楽しめる。

2017年1月15日日曜日

「お金持ちはなぜ、靴をピカピカに磨くのか?」 臼井由妃

 倹約の方法本である。著者の実践に基づいており、倹約とともにミニマリズムにも通じる点が多い。
 モノを減らすことを考えるとき、モノが増えることを考える必要があるだろう。そこに関係する物欲についてこう書いている。
欲しいモノが多くて困るという人は、「欲しい気持ち」に理由があることを知ってください。なぜそれが欲しいのか?本当に欲しいのか?自分に問いかけてみましょう。[p.36]
「なぜブランド品が欲しいのか?」の答えは、ブランドの所有が自己の価値を向上させるという認識に基づいている場合もあるのではないか?収入が低いのに高級車を乗り回す心理とも似ているだろう。つまり、所有品の価値を自分の価値とみてしまう心理だ。

 モノの購入基準として、単に安いからという理由ではなく、
モノを購入する際には、自分の耐用年数(寿命や求めている使用期間)で選択をしています。[p.46]
という基準を示しており、後のほうでも、「だから高くてもよいものを買って長く使う」と述べている。


 倹約を実践のためのスタイルを、「清貧」ではなく「清富」生活と呼んでいる。(同様に節約と倹約を区別している)。そのなかで、
買ったほうが安くて美味しいものはつくらない。[p.104]
といい、具体的には揚げ物など手間を考えると自宅でつくるよりかは買ったほうがよいと述べている。それぞれのヒトの考え方によるが、無駄なこだわりは捨てたほうがよいということか。



 お金持ちに学ぶ「倹約生活」のルールの章で、「運」について言及されている。
ここぞという時に運を使えるように、運のムダづかいは避けることをおすすめします。[p.173]
とあり、金持ちはめったにパチンコをせず、そんなところで運を使いたくないからということらしい。
運の出し入れに関しては、麻雀の本にも書いてあった気がする。すなわち、「点棒のやり取り」だけではなく、そこに見えない運のやりとりがあるのだと。
 人により運がよかったり悪かったりということがあることは間違いない。ただ、運に任せる際には「運の消費」に留意したほうがよいだろう。「運」については最初のほうでも、
「節約」を始めて最初に気づいたのが、運は隙間がないと導かれないということでした。[p.20]
と、「運を呼び込むことの大事さ」にふれている。

「運」を科学的に説明できるのかといわれると全く自信がないのだが、その大切さは、この本に限らず、あちこちで取り上げられている。



2016年12月3日土曜日

「〈貧乏〉のススメ」 斎藤孝

経験としての貧乏も悪くない、そんな内容だ。したがって「ずっと貧乏」を勧めているわけではない(それが通常の人間の感覚でしょうけど。)


貧乏の自覚に関しては、著者の貧乏経験を振り返り、次のように述べている。
貧乏を受け入れて暮らすのか、貧乏には戻らないように働き続けるのか。二つの岐路にたっているんだということを意識するだけで未来の展望はひらけてくる。(p.50)
貧乏経験を経ると、そこに戻りたくないという感覚が働き、それがモチベーションになるようなことを言っている。すなわち、
仕事をするうえでちょっとした貧乏性であることは、まっとうな危機感をもつうえでとても大切なことなのだ。(p.55)
と貧乏性を肯定している。


貧乏経験をバネにするという点で、
その若いころの「悔しい」体験が、あとあとの燃料になっている。わたしはそれを「石油化」と呼んでいる。(p.64)
と表現している。植物の残骸が長い年月を経て原油に変わることになぞらえているのは、なるほどと感じられる。


貧乏であればお金を使えないが、そのことをデメリットとは受け止めず、反対に、
学びは貧乏ととても相性がいい。(p.80)
といっているのは的を得ているだろう。お金がなくとも「学ぶ」ことは十分に可能であるからである。
しかも、今やネットを使えば 「学ぶことがタダ」となる傾向が加速している。
しかし、全くの無料で学ぶことには全面的に肯定しているわけではなく、お金を使う効用も述べている。すなわち、
学ぶということでは基本的にいいことなのだが、身銭を切るからこそ暗記するし、覚えることもできる。(p.195)
との意見だ。タダには越したことがないが、そこで身銭をつかうかどうかで「本気度」が変化するのは心理学の理屈で説明可能な人間の特性といえるだろう。


貧乏は「通過点」であるとしても、基本的には欲求には際限ないといっており、
ただし欲望は限りない。それを自分でコントロールする感性があるかどうか。それが重要だ。(p.209)
と、自制の大切さを説いている。 これに関しては、「感情をコントロールする」の項で次のように言っている。
社会性のある人間になるには、もう一つ、感情のコントロールが重要だ。「自分の気分」と「外へ出すもの」は別でなければいけない。(p.149)
大の大人であっても感情を「垂れ流し」にしてしまう人がいるのは事実であり、それは大人とは言えないだろう。

以前に紹介した貧乏のすすめと同じタイトル(別著者)ですが、ちょっと立ち位置が違います。

2016年11月29日火曜日

「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」坂口 恭平

端的に言うと「ホームレス入門」といえる。ホームレスとは路上生活者なのだろうが、その概念を拡大して路上のみならず河川敷での生活も含まれる。ホームレスとなると、原則的には住所不定をとなりいろいろと不便が多いと聞く。しかし、見方を変えるとこれって「ミニマリスト」の一つの形なのではとも思える。いうなれば「所有」からの解放である。
大都会において「狩猟採集生活」が成立つという見方は新鮮であるが、逆に都市でないと成立しないともいえる。言い方を変えると都市への「寄生」的な生活だ。

ゴミから稼ぐこと(ここではゴミを「都市の幸」と呼んでいるが)の実際のやり方が紹介してあり、まさに「入門書」である。書かれていることの中でも、住む場所についての記述が興味深い。住まいを考えるとそこにはインフラが不可欠であるが、そこで、電気や水道、ガスに「なぜいつもつながっていないといけないのか」という疑問を投げかけている。その答えとして「それは使う分量がわかっていないからではないか」といっている。著者が「多摩川のロビンソンクルーソー」と呼んでいる人の生活から、資本主義とは離れて「自分にはどれくらいのエネルギーが必要なのかを把握し、その分だけを自らの手で手に入れるという考え方」がなされているといっている。

河川敷に住居を構え、そのあたりで畑を作って野菜をつくったり、また生業としてゴミを選別したりして現金を得る生活をホームレス(その前は乞食といったかどうかは不明だが、これは現在では差別的な言葉なのであろう)と呼ぶが、その生活スタイルはむしろ合理的ではないかとの見方ができるだろう。

最後のほうに『森の生活』(ヘンリー・デイビット・ソロー著)と、それと関連して『方丈記』(鴨長明著)のことがでてくる。前者は森の中で2年間の自給自足の記録であり、後者は鎌倉時代に鴨長明が山に方丈庵を建てそこでの記録をつづったものである。でその方丈庵がモバイルハウスであったという点が、著者がとりあげたポイントであろう。つまり、現在の都市型狩猟採集生活と類似点が多いということである。