2016年8月7日日曜日

「「しないこと」リストのすすめ」 辻信一

 「やることは」はリスト化するが、「やらないこと」をわざわざ決めるておくのは一般的ではないだろう。いわば「しないこと」に意思をもってやらないということだろうか?何かの本に「しない」というのは決定しなかったことではなく「しない」という決定を下したのだと書いていたことを思い出す。
「すること(すべきこと)」が足し算的な発想であるのに対して、「しないこと」は引き算的な考え方であるとし、以下のように述べている。
過剰という問題を解決するにはどうすればいいか。そう、答えは引き算にあり。空間であれ時間であれ、整理の基本は、溜めこみすぎたクラッターとしてのモノやコトを、いかに削減するか、だ。[p.99]
英語の「クラッター」という概念を引き合いに出している(著者が海外に長く住んでいたことにも関係しているのだろう)。要は家の空間に詰め込みすぎの状態のことだが、概念はまさにものだけではなくコトにもあてはまるだろう。

 モノの所有に関しては、モノを買う→置き場がなくなる→スペースを確保するにはお金がいる→そのためには働いて稼がなければいけない、そしてその稼ぐためには生産活動が必要で、
ぼくたちはみんな「生産」という王様の奴隷たちなのだ。[p.105]
と述べている。今の時代は生産と消費(しかも大量な)に経済が支えられていると言わざるを得ないだろう。また、生産→消費→拡大再生産の輪に取り込まれた一般人は、そこから抜け出せない奴隷ともいえるだろう。

 「引き算が生む質の豊かさ」の項で「more is more」と「 less is more」の話がでてくる。大量生産大量消費の前提では「もっともっと」が継続する。一方、後者では、わかりやすい例では、モノを減らせばより多くの空間が得られることだが、モノが少なくても精神的には豊かになれる可能性を言っている。まあ、豊かさや幸福についてはひとまとめに語ることは難しいが。


第4章の未来のためのしないことリストの「3.雑用をゴミ箱に捨てない」では、「雑用」、すなわち「効率化のためには無駄なこと」の価値が論じられている。効率化のなかで言われる「雑用」にこそ意味があるのではないかと。引用すると、
しかし、人生とは、そもそもこうした雑用の集積のことではなかったのか。雑用には時間がかかる。いかにも非効率的だ。面倒に感じられることも多いだろう。しかし、時間もかからなければ面倒でもないようなものに、そもそもぼくたちはいったいどんな楽しみややりがいが見出せるというのだろう。[p.135]
自分を省みると、時間的な効率化に染まってしまった発端は受験勉強時期にあったように思える。(その無駄排除の姿勢も大学進学後にはしばらくなくなったが…)。

効率化をめざす、雑用をゴミ箱へほうりこむ、そうしたことは結構なことだが、その効率化の先には何があるのかを考え直すことが必要であるかもしれない。いろんなことに「無駄」のレッテルを貼る以前に、日々行っていることのどのくらいのことが「無駄じゃない」と言えるのか?その答えはその人が生きる上で何を大切に思っているかによって千差万別であろう。

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