2013年4月28日日曜日

「わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か」  平田 オリザ

ひきこもりに代表される、コミュニケーションに問題のある若者が増えた背景について教育者の立場から考察しています。著者は劇作家・演出家を出発点として、教育へと携わってきた点がユニークです。

今の就職活動をしている若者は、自立して考え自分の意見を述べる能力を要求されている一方で、「同調圧力」による従来型のコミュニケーション能力、例えば「会議で空気を読んで反対意見は言わない」といった能力を求められており、この「ダブルバインド」が引きこもりやニートの問題の原因のひとつだと述べています。また、コミュニケーション能力が低下したのではなく、全体のコミュニケーション能力が上がってきたからこそ、コミュニケーション能力の低い人が「顕在化」してきているとも見ています。

演劇の観点のみならず、英語や韓国語との比較からも、日本(語)でのコミュニケーションの特徴について考察を加えています。


子供には「対話の基礎体力」が必要だと述べており、それは、
日本では(あるいは相手が日本文化のバックグラウンドをもっていれば)説明しなくてもわかる事柄を、その虚しさに耐えて説明する能力。
異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと。
と規定しています。
ここでの「対話」とは、「2つの論理が摺りあわさり、そこから新しい概念を生み出す」もので、どちらの意見が正しいかを導き出すものではないとしています。対話と会話は異なるものです。対話の重要性については以前にこちらの本で紹介しました。

最近の状況は変わってきたかもしれませんが、基本的に小学校では、伝える相手は日本人を想定しており「話さなくてもわかる」前提で教科が組み立てられているのでしょう。学校教育のなかで「対話」についてきちんと取り上げられていたなら、私の人生ももう少しマシなものに変っていたかもしれません(笑)。



「冗長率」についての考察は興味深いです。
冗長率とは、
一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを数値であらわしたもの。
であり、コミュニケーションとの関連性については、
冗長率を時と場合によって操作している人こそが、コミュニケーション能力が高いとされるのだ。
と言っています。単に冗長率を低くすればよいのではないと言っている点がポイントで、相手の要求によって、ときには冗長率を高くすることが必要である指摘は新鮮です。なぜなら、大抵の場合、「余計なこと」は言わないほうがよいとされるからです。
冗長率の低い高いについては、NHKの夜7時のニュースと夜9時のニュースの例(前者が低く、後者が高い)が挙げられています。


社会的弱者のコンテクストを理解する能力が、これからのリーダーシップに必要であると述べており、さらに、著者は学生に対して、以下のように言っています。
論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的に喋れない立場の人々の気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。
ここでは、コンテクストの意味として、「その人がどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像」と広く定義しています。
コミュニケーションの手段として「言葉」は重要ですが、それはあくまで伝える手段の一つに過ぎません。「相手の気持ちを察し、気を利かせることの重要性」は、この手の本では共通して述べられていますね。


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