2015年3月29日日曜日

「執着の捨て方」アルボムッレ・スマナサーラ

 執着に関しては、モノに対して執着するなといわれれば、それはよく理解できる。この本でも執着とそれとの断ち切り方にふれているが、初めて知ったものは「言語執着」という概念である。日本人は日本語に対する執着を捨てることができれば、外国語がスッと頭に入ってくるのだといっている(かなりツッコミどころがありそうだが、、、)。

仏教の考える執着の種類は次の4つを示している。
1. 欲への執着
2. 見解への執着
3. 儀式・儀礼への執着
4. 我論への執着

 宗教で懸命にお祈りしてあの世のことを考えたり、また、来世の幸福のために時間を費やすことは、それこそが「執着」以外の何者でもないとの見解だ。宗教をめぐって殺し合いが起こるほどなので、信仰の外にいる立場から見ると「宗教が生んだ執着の帰結」かとも思える。

 執着の種類で最も衝撃を受けたのは、4つめの「我論への執着」である。「自分である」「自我である」とは、「錯覚」であり「私」は無常で変化し続ける実体のないものだと。「自我を捨てろ」というのではなく、「自我が錯覚であることを発見(=解脱に達する)しなさい」というのが仏教が諭していることのようだ。「我論の執着」までに及ぶと、その執着が何かを実感としてつかむことが難しく、だからこと仏陀は偉大であったのかと思う。

 ページの活字は大きめで、かつ、各章にはまとめもあるので読みやすい。上述のごとく、この本は単なるハウツー本とは呼べない。解脱の境地には程遠い自分としては「自我は錯覚にすぎない」という指摘には考えさせられた。


0 件のコメント:

コメントを投稿