2015年4月5日日曜日

「インターネット的」糸井重里

 「インターネット」と「インターネット的」では違う。それは、「自動車」と「モータリゼーション」との違いの関係のようなものだということのようだ。他の例として、インターネットが「皿」ならば、インターネット的とは「その皿にのせる何か」であり、そのお皿自体は著者には興味ないものだという。よく言われるように、ハードが重要ではなくソフト(コンテンツ)が重要だということであろう。

 軸となる発想として、リンク、シェア、フラット化を挙げている。「フラット化」に関しての面白い指摘は、価値観のフラット化によって価値が多様化したのではなく、価値の「順位付け」が多様化するという点だ。
「多様化」に関しては、モノの生産者が多様化に対応するために困ったことになっているといわれることに対して、それは売り手の論理であると切り捨てている。そこにうまく対応できたハシリはamazonであろうが、この本が最初に出版された時点ではamazonが拡大する以前であったことから、著者の見方に先見の明があったといえるだろう。

 「インターネット的思考法」(第4章)で、『選択問題の答えを求められて「どっちでもいいんじゃないか」と、この頃は本当に思うのです』と述べており、だいたいはどっちでもいいを貫いている。選択を失敗したか成功したかは後になってみないとわからないし、振り返る時点がいつかによっても変わる場合のであながち間違いではないかもしれない。古人が「塞翁が馬」とはよくいったものである。

 筆者の考え方で面白い点は、「消費」に対して肯定的で「消費のクリエイティビティー」とまでいっている点だ。急に大金を手にした人がこぞって超高価な高級車を買う傾向がある(他に買うものを思いつかない)のを、「欲望の貧困」と表現している。だから、消費のクリエイティビティーが育てばいいなと。『人間はもっと遊んだり消費したりすることに熱心な生き物だったんじゃないか』『消費や遊びを軽蔑して、蓄積や生産に狂奔してきたことが、人間のエネルギーをすっかり疲弊させ「つまらない動物」に変えてしまった』とのべている。個人的には消費によって人間が生き生きするのは近代化が起こした変化であり、別になくても何とかなるのではと思うのだが。

 「問題発見」に関して「寝返り理論」を紹介している。つまり、何かを続けていて、それに不快感を感じ始めたらそこに問題があり何かを変える時期なのだという。寝ていて同じ姿勢で辛くなると無意識にでも寝返りを打つのと同じだということだ。まあ、ある程度同じことを続けて違和感を感じれば変化を起こす時期の知らせなのかもしれない。が、寝返りしすぎると全く寝付けないので、不快感のサインの読み違えに注意が必要だろう。

 
 本書の最後に「続・インターネット的」が追加されているが、その部分以外の本文はほぼ執筆された2001年のままということで10年以上の古さを全く感じさせないのは驚きだ。著者のクリエーターとしての能力の高さのなせる業だろう。

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