2016年9月22日木曜日

「人生の〈逃げ場〉」上田紀行

 一昔前の会社中心の生き方は終わったという論調は、他でも見受けられるが、そこを「会社一神教」と言っている分は新しいかもしれない。昔(といっても戦前ごろか)では、地域のつながりあるいは、精神的な支えとしての宗教が機能していたが、現在ではその部分が希薄になってしまったと。会社という組織の中で生き辛くなると、あたかもその人が全面的にダメっぽくみられたり追い込まれたりするのは「会社一神教」の弊害であるといえるだろう。


経済全体が右肩あがりの時代であれば、会社が非雇用者を「丸抱え」するシステムは機能していたが、全体的に経済が縮小していく昨今の状況では「成果主義」とかが声高に叫ばれる状況は致し方ない。本書の終章で「交換不可能な存在になる」ために、会社単線の生き方から、複線化した人生へと言っている。非正規雇用の問題や、経済至上主義はまさに人間を「交換可能な」存在として扱う思想の上に立っているといえるのではないか。

一般的にいえることは、ひとつだけに頼っていては危なっかしいということだ。会社の事業でもでかい柱に頼っていても、それが順調なときはよいが、状況が変わって傾いてくると全社的な危機となる。「多様性」については生命も同じで、「多様性」があるからこと変化に対応できるわけで、多様性がないと外的な要因で「絶滅」の可能性があるわけだ。そのほか、資産運用だって「卵をひとつのかごに盛るな」といわれるように、リスクを減らすための分散投資は基本的な考え方だ。
だから勤め人だとして、その勤務先に全面的に頼ってしまうと危なっかしいということだ。おそらく、あまり心配なく頼れたのはバブル期以前までであり、年金が55歳からもらえた世代だろう。

「交換不可能な存在」って、言ってることはわかるが、それって相当ハードルが高い気がする。まあ、プロスポーツ選手や優秀な経営者のような存在になることは難しいが、きちんとした家族の一員としてや、小さなコミュニティーのなかで欠かせない人物になることくらいはできるかもしれない。

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