ブラジルについて、ざっとしたことを知りたかったので、この本を読みました。出版が2011年なので、比較的最近の事情をカバーしているのがよいです。
第1章の社会・生活の話から始まり、第5章の政治・外交の話と章立てされており、各章は、「なぜ○○なのか」という2~3ページの短い部分で構成されています。したがって、まとまっていない細切れの時間でも読み進めていくことができます。第4章に「サッカー・スポーツの話」があるのは、ブラジルらしいと思います。
読んで、ブラジルとタイで似ている点に気づきました。
「貧しくても楽天的」
これを「ラテン的」と呼ぶひともいるでしょう。余談ですが、日本の将来も経済的にみると明るくないので「ラテンで行こう」と、日本人の生き方を変える提案をしていたのは、森永卓郎氏だった気がします。ブラジルの場合は、生きている間を楽しむ生き方であるのに対して、タイでは、「来世」や「生まれ変わり後の人生」に賭ける点が違っているでしょう。「だからタイ人(特に庶民層)みんな必死でお寺にお参りしている」といっている人もいます。
「トイレの紙は流さず別のゴミ箱に捨てる」
紙を一緒に流さずに別に捨てる方式の水洗トイレ地域は、世界的にみればかなりある気がします。中級以下のタイのローカルなホテルでは、トイレが洋式だけど、トイレ内にそこそこの大きさのゴミ箱があると、紙をそこに捨てるのか、流してよいのか躊躇します。
大きく違う点は、犯罪率の高さでしょうか。「夜間に赤信号を無視する(交差点では停止しない)」のが常識とは驚きました。赤信号であろうと停車すると襲われる恐れがあるのが理由のようです。都市部だけだと思いたいですが、日本では想像できないです。
ある国について語る場合、あくまでもその一面、ひとつの切り口でしか語れないので、本書の内容を鵜呑みにするのはなく、複数のソースから情報を得るのがよいでしょう。
当ブログに訪問いただきありがとうございます。 自分の読んだ本のレビュー(メモ程度ですが)、語学学習の経験、そして猫についてつれづれなるままに書いています。なお、本に関しては、原則、『「タイトル」-著者』の見出しにしています。
2013年10月19日土曜日
2013年8月20日火曜日
タイでタイ語の必要性を考える
ブログの主旨から外れている気がするが、せっかくタイにいるので、今回もタイネタを。
タイの街を歩いていると、いろんな看板や標識が目にはいる。自分の母国語は日本語なので、日本語が最も目につく(かなり少ない)。次に認識されるのは英語で、その表記を思わず読んでしまう。タイ語表記は、読めそうであれば読もうとする(厳密には中途半端に読んで、自分の知っている単語の情報と組み合わせて理解すると言った方が正しい)。
不完全ではあるにせよ文字を読めるのは便利だが、一方で日常生活の中でおびただしいけ情報に曝されていることを再認識する。日本で町を歩けば広告(日本語か、英語)が目にはいり、それらを読まずにおくことはできない。(よほどボンヤリしていれば別だが)。視覚から文字の情報が脳へ流れこんでくる感じだ。
以前、タイ国境からミャンマーに、ほんの数時間だけ行ったことがある。その時は、あちこちであの丸っこいビルマ語を目にしたものの読めず、なぜか不安な気分になった。その時に、視覚から得られる脳への情報量は少なくなっていたのではないか、と考えると文字の読めないことにもメリットがあるのかもしれない。
ローカルな言語を読めると、そこでの生活は便利だろうが、都会(タイだとバンコクとか)に住めば英語だけでも問題ないだろう(日本でも東京や大阪といった都市であれば、日本語が出来なくても暮らせそうだ)。逆に地方で暮らそうとすれば、現地語の必要性は高くなるだろう。地方に行くほど英語表記が少なくなるのは、日本でもタイでも同じ気がする。
ただ、タイ語の欠点は、原則タイでしか使えないことだと思う。日本語もそうだがローカル性が高すぎる。だから、「汎用性」という点では、英語を除くとスペイン語やポルトガル語や中国語のほうがよいのだろう。一度はタイ語をある程度に極めようとしたが、当面は移住の可能性もないので、再び英語学習に集中するに到った。
「大抵の国では、都市部に住むなら英語で何とかいけるんじゃないか」と思う一方で、「現地語が出来ればやっぱり楽しいだろう」という結論かな。ただ、人生長くても100年ほどなので、語学にどれだけの時間をかけるかを考えておいた方がよいと思います。
タイの街を歩いていると、いろんな看板や標識が目にはいる。自分の母国語は日本語なので、日本語が最も目につく(かなり少ない)。次に認識されるのは英語で、その表記を思わず読んでしまう。タイ語表記は、読めそうであれば読もうとする(厳密には中途半端に読んで、自分の知っている単語の情報と組み合わせて理解すると言った方が正しい)。
不完全ではあるにせよ文字を読めるのは便利だが、一方で日常生活の中でおびただしいけ情報に曝されていることを再認識する。日本で町を歩けば広告(日本語か、英語)が目にはいり、それらを読まずにおくことはできない。(よほどボンヤリしていれば別だが)。視覚から文字の情報が脳へ流れこんでくる感じだ。
以前、タイ国境からミャンマーに、ほんの数時間だけ行ったことがある。その時は、あちこちであの丸っこいビルマ語を目にしたものの読めず、なぜか不安な気分になった。その時に、視覚から得られる脳への情報量は少なくなっていたのではないか、と考えると文字の読めないことにもメリットがあるのかもしれない。
ローカルな言語を読めると、そこでの生活は便利だろうが、都会(タイだとバンコクとか)に住めば英語だけでも問題ないだろう(日本でも東京や大阪といった都市であれば、日本語が出来なくても暮らせそうだ)。逆に地方で暮らそうとすれば、現地語の必要性は高くなるだろう。地方に行くほど英語表記が少なくなるのは、日本でもタイでも同じ気がする。
ただ、タイ語の欠点は、原則タイでしか使えないことだと思う。日本語もそうだがローカル性が高すぎる。だから、「汎用性」という点では、英語を除くとスペイン語やポルトガル語や中国語のほうがよいのだろう。一度はタイ語をある程度に極めようとしたが、当面は移住の可能性もないので、再び英語学習に集中するに到った。
「大抵の国では、都市部に住むなら英語で何とかいけるんじゃないか」と思う一方で、「現地語が出来ればやっぱり楽しいだろう」という結論かな。ただ、人生長くても100年ほどなので、語学にどれだけの時間をかけるかを考えておいた方がよいと思います。
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| タイの田舎で出会ったネコ. タイ語で話しかけないとダメかも… |
2013年8月18日日曜日
タイで感じること
何とか夏休みをとることができ、今、タイにいる。
タイに来て一番に感じるのは、物価の安さだ。スーパーで売っていたスイカ(ラグビーボール形)はキロあたり19バーツだった。1万円をこちらで両替したら3009バーツだったので、キロ63円に相当する。小玉スイカ3kgとして約190円、日本で買うと1000円はするのでざっと5分の1である。(スイカの種類にもよるが。) もちろん果物や野菜は極端な例かもしれないが、総じて食費は安く済む。しかも屋台や市場で調理済みのものを買っても同じく安い(安く上げるために自炊する必要もない。)
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| 田舎の、とある市場にて |
だから「人生の谷」(注)にいた時に、いっそのことタイに移住しようかと真剣に考えたことがある。理由は日本より安く暮らせるのではないかと考えたからだ。しかし、結局その計画を実行するには至らなかった。
一つには、健康に自信がなかったためである。日本では健康保健でそれなりのお金を徴収されているが、同じサービスを海外で受けるとなると高くつく場合が多いだろう。
もう一つは、自分の運の良さに自信がなかったからである。こちらタイのニュースを見ていると、事故や事件が多い気がする。これらに巻き込まれなければよいのだが、その保証はない。(日本でも、物騒なご近所殺人事件が起きたので、日本が平和であるとも言えないが。)麻薬中毒者の絡んだ事件は、日本より明らかに多い。タイ移住を考えていた頃、タイに関する本をいろいろ読んだ。タイ本は数多くあるが、下川裕治氏の本を挙げたい。彼の本はどれも面白かったが、最近のもので「移住」ものだとこれだと思う。
「行き場」ではなく「生き場」とにしているところが、日本で暮らす閉塞感から脱したい人々の感じを表している。
(注)山あり谷ありで、よい時と悪い時のどちらが山でどちらが谷かという議論(?)がありますが、「あの時がピークだった」と言ったり「どん底だった」と言ったりすることから、よい時が「山」で、悪い時が「谷」だと解釈しています。
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